しばらくの間、この川を見ながらバスはミズーリ州セントルイスに着いた。バスの車窓から巨大なブーメランを縦にしたようなオーナメントが見えた。

「なんだこりゃ。」と思った。「ゲートウェイ・アーチ」というらしい。かつて西部開拓の夢を抱いた人たちがセントルイスを起点にカリフォルニアやオレゴンを目指して旅立っていったという。そのシンボルを形としているのか。街のどこからでも見える。夕刻、太陽に照らされて、綺麗な影を街に落とし、夜は照明を当てられ、くっきりと存在感を示していた。写真を撮りまくった。

バスは、ミシシッピー川本流から離れ、しばらくの間、一直線の道を行く。「しばらく」といっても、これがとんでもなく長い時間だった。ガイドブックや持参の本を読んだり、カセットテープの音楽を聴いたりしながら、時間の感覚を消し去るようにした。日本から持ってきていたカセットテープは、「長渕剛」と「チャゲアンド飛鳥」の曲だった。何度も何度も繰り返し聴いた。帰国してから彼らの曲を聴くたびに、「ひとり旅」の場面が思い出されてくるほどに聴いた。曲ごとにどこにいて、どんな状況だったのかが思い出されるほどに幾度となく聴いていた。

バスは、オハイオ州シンシナティに着いた。もうすでに夜中だった。迎えの車が来ていた。バスが着く時間をあらかじめ聞いていたのか。当時は、携帯もスマホもない時代だったから、お世話になった校長先生と、今度の校長先生との間で手紙や電話でやりとりしていたにちがいない。あらためて二人の校長先生に心の中で感謝した。

学校は「キュア・オブ・アートスクール」といった。小学校だった。そして、住居は、その学校から四十分ほどのアパートを借りた。毎朝、校長先生が迎えに来てくれて、学校に行った。車で学校へ向かう途中、あの大リーグ球団シンシナティレッズの球場リバーフロントスタジアムを見た。

「これは、シンシナティレッズの球場ですか?」

と聞くと、

「そうだよ。」

と言った。

この小学校には、約二週間滞在した。そこでもまた子どもたちに日本のことを紹介した。街の郊外にあって、三階建てのレンガ造りのきれいな学校だった。アメリカの小中学校の校舎は、レンガ造りの建物が多い。レンガ造りは、なんとなく趣があって、歴史を感じる。

ここでは、子どもたちとよく絵を描いた。クレヨンがなくなると、週末に校長先生と車で大きな文具店に行った。そこでクレヨンやノートを買った。ノートは、英語の勉強用に四~五冊ほど買って、なかなか使いやすいサイズと厚みで、今でも重宝している。

ある日、体育館に、巨大な「鶴」を作った。ティーチャーズルームにある、大きな厚い紙をもらって、体育館で貼り合わせて、「鶴」を折った。それを見ていた子どもたちや先生たちは、

「何ができるんだろう。」

と口々に話していた。当然質問しにやって来る子や先生がいて、

「ジャイアント・クレインを作っているんだよ。」

と答えても、ポカーンとした様子だった。しかし、その形がだんだんと出来上がってくると、一人、また一人と、

「ワ~オ。」と言う声が聞こえてきた。

※本記事は、刊行の書籍『ロッキー山脈を越えて』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。