「やはり、あの日と全く同じ位置に立っている……」

と、思いながら目を凝らすと遠目にもキャンバスは白く光っているように見えた。しかも、その前に立っている人物の後ろ姿と、三脚と、キャンバスの三者が海辺の風景の中に溶け込んでいるのではないかと思われるほどの一体感を与えた。美子は思わず、

「本当だったのだ。やはり来ていた。一週間前、電車の中で不意に言ったことは、本当だったのだ……。海の絵の続きを描くために来ていた……」

と、小さく呟きながら、ほっとした気分になった。

美子は、日傘を傾けたまま、暫くその光景を見ていたが、不意に軽い眩暈(めまい)を覚えて一瞬、意識が遠退くような、少しずつ記憶が薄れていくような不安に襲われた。慌てて道沿いに生えている芝生の上にハンカチを敷き足を投げ出して座った。その後、どれだけの時間を、その場に座っていたかは定かではないが、美子はふっと息をふき返したような、遠退いていた意識が徐々に戻ってきそうな不思議な感覚を持ち始めた。

「あの方が海の絵を描いているのではない。あの光景はひとつの絵。何時だったか記憶にはないが、何処かの展覧会で観ていたような……。あの後ろ姿は大きなキャンバスに描かれていた人物そのもの。あの絵の中には縁の大きな麦藁帽子も、その向こうには青い海があり水平線も船も描かれていた。それも、あの方は、ずっと、ずっと遠い日に、あの光景を描いた絵をじっと見つめていたようにも思う。

いえいえ、そうではなくて、あの方が、あの場所で海の絵を描いたような気もする。そして、それはそんなに遠い日ではなくて、ごく、近い日であったようにも思える。でもあの光景は、どうしてだか判らないけど、とても懐かしく思える……」

と、美子は自分でも理解のできない不思議な感覚に陥った。

「それにしても、本当は何時だったのか。ずっと昔か……。ほんの少し前かも……」

と、声にならない声を発して、暫く、その光景に目も心も奪われていた。

しかし、それは、そんなに遠い日のことでも、展覧会で観た絵でもなくて、三週間前に見かけた現実の光景であることに気付いたのは、その人が美子の傍に来て、

「大丈夫ですか……」

と、声をかけてくれた、その時であった。思わず、はっとして美子が顔を上げた時、緊張したような、戸惑っているような、複雑な表情をして自分を見つめている視線と自分の視線が合った。思わず、

「あ、ごめんなさい……」

と意味もないひと言を発した後、

「なぜ……」

と首を傾けながら、美子は一刻も早く、この状況を解明したいと焦った。しかし、その答えは、すぐに出すことが出来た。

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※本記事は、2019年10月刊行の書籍『片羽の鳥』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。