海の絵

美子は、その時、

「いま、わたしは大事な物を持って行こうとしている……」

と不意に訳もなく嬉しさのような感情が湧き上がった。その感情を抱いたまま、美子は海沿いの、細い道路を三週間前に歩いたのと同じ歩調で、しかも、呼吸を整えるようにして、ゆっくり、ゆっくりと歩いていたが、その時、

「わたしの視線は、無意識に海の方へ向けている。電車に乗った時だって、バスに乗っている時だって……。それに歩いている、いまだって……」

と気付いて、不意に可笑しさが込み上げてきた。

「でも、ひとりで笑っていれば、通りがかりの人が不思議に思うだろう。いえいえ、そうじゃない。馬鹿じゃないかと思われる……」

と、美子は自分を制した。その時、不意に、

「此処で少し気分転換を図らなければ……」

と、誰かに言われたような気がした美子は、

「そう……」

と訳もなく答えながら大きく息を吸い込んだ。

「そういえば、いま、わたしの進んでいるこの方向は正しいのか……」

と、一瞬不安になり立ち止まって美子は、場所を確認しようと周囲を見回した後、真正面に見える海の一点に目を凝らした。

「いまは晩夏。この風は確かに晩夏の海の匂いを運んでくる。海原の上には白い翼を広げて翔ぶ海鳥も見える。はるか彼方の水平線すれすれに、幾つかの船も浮かんでいるのが見える。全てが、あの日の光景と同じような気がするし、陽射しだって、そんなに変わっていないような気がする。わたしの大好きなこの風景の中で、彼はキャンバスを三脚に立て掛けて、この前の続きを描いているだろうか。あの日から、どれだけ描き進んだであろうか」

と思った。その直後、不意に、

「それよりも、わたしがあの場所に行くことを喜んで待ってくれているだろうか……」

と期待半分、不安半分の気持ちが頭をもたげた。

「そして、わたしは、いま、そのふたつの気持ちに潰されそうになっているのは間違いない……」

と思いながら、その不安を押し退けるように、かざしている日傘の柄をきつく握り締めて五分ほど歩いて行くと、その少し先の方には見覚えのある大きなキャンバスが自己の存在を主張するかのように海に向けて立て掛けられていた。

美子は、ふと

「あのキャンバスに描かれているはずの海の絵は、この位置から見えないかしら……」

と、思い付き、日傘を傾けながら道の端の方へ二、三歩、歩み寄って身を乗り出すようにしたが、さすがにここからは、その画面まで見えないことが、すぐに判った。