当時の中学生といえば十人中一人が進学するかどうかのエリート予備軍。その中でも、役人、医者、軍人、大会社の重役などの子どもは将来の高等学校や士官学校進学を目指しているので目の色を変えて勉強する。駒場の一高を始めとするナンバースクールに受かれば、学部を選ばなければほぼ全員その上の帝大に受かるからだ。

さもなければ、父親が歩んでいるエリートコースへの道は閉ざされる。同じ中学の生徒でも、そういうグループと賢治たちのグループは自然に、なんとなく分かれていた。

金丸と栄輔の冒険成功に刺激された「カラス組」が次に企てたのは、賢治の住む花街見学だった。発案したのは賢治ではなかったが、こちらの方は賢治の手配でうまくいくという自信があった。

第一には、若松町は賢治が生まれ育った街で、すみからすみまで知っている。そして、この街の隣町には商業学校があって、徽章は違うが町中を同年代の生徒が闊歩している。その上、小さいながらも色々な商売屋が点在しているので、中学生が歩いていても不思議ではない。穴切とはまるで違うのである。

ただ問題は、中学生が花街見学などという前代未聞のことをして、世間が、というより母がどう思うか、ということだった。芸者衆は芸を磨き、プライドを持って生きてはいるが、世間の目では陰の女としてしか見ない向きもある。この街で育ったために、そういうことに賢治は敏感だった。

そこで一計を案じた賢治は、甲中内にカラス組の五人をメンバーとする「日本伝統文化研究会」なるサークルを立ち上げた。「現下の混迷する世界情勢に鑑み、万古より連綿と続く我が日本帝国固有の文化云々」という趣意書を作文し、吟詠を趣味としている漢文の教師、竹井先生に相談すると、「うむ、時局柄なかなかいい心がけだ、大いにやりたまえ」と簡単に顧問を引き受けてくれた。

学校で認められた会ができれば話は早い。早速見学場所の希望を募った。もとより、女の園、花街を見てみたいというだけの動機の不純な「研究会」である。しかし、四人にそれぞれの希望を聞くと、意外なことに皆まともなことをいってきた。

【♩旅の衣は篠懸のお―】などと歌舞伎の勧進帳の関所の場面だという一節を、その部分だけだが鼻歌のように繰り返す癖のある薬屋の三枝と、剣道の有段者で詩吟がうまく、疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山の吟詠が得意で声自慢の教師の次男、渡辺。この二人は清元、常磐津希望。製糸屋の栄輔が踊り、賢治と酒屋の金丸が茶道と、希望を出した。

希望といっても正式に弟子入りする訳ではない。あくまで見学希望である。そこで、研究会の趣意書を持って、それぞれのお師匠さんの稽古場を五人で一緒に訪問することにした。

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※本記事は、2022年4月刊行の書籍『上海輪舞曲』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。