10 渇愛

渇愛も、初転法輪のときに説かれます。四諦の法が説かれたとき、集諦すなわち苦の原因として渇愛(taṇhā)と言う言葉が使われます。

比丘たちよ、苦の集起についての真理とは以下である。

繰り返す有をもたらし、喜びと貪を伴って随所に歓喜する渇愛である。

つまりは、欲愛、有愛、無有愛である。

欲愛とは、肉体の感覚によって得られる快楽への渇望ということで、食欲と性欲があげられます。

有愛は、生存の拡大への渇望です。欲愛が肉体の欲望であるのに対し、有愛はより観念的、精神的なものです。所有欲や名誉欲など、自我の拡大への渇望です。

無有愛は、嫌悪する対象を消してしまいたい、殺してしまいたいという渇望です。嫌悪する対象が他人であれば殺人願望となりますし、嫌悪する対象が自分に向けば自殺願望になります。

渇愛は、欠乏感により増大します。というより、渇愛の大部分を欠乏感が占めるのです。

芥川龍之介の小説に『芋粥』があります。ある風采の上がらない小役人がいて、いつも芋粥を腹一杯食べたいと願っていました。貧乏だったので、腹一杯の芋粥など食べることができなかったのです。それを聞いた貴族が、芋粥を御馳走してあげようと言ってくれます。ところが、あれほど夢に見た芋粥でしたが、大鍋にいっぱいの大量の芋粥を見た途端、全く食欲が失せてしまった、という物語です。

食欲という、最も肉体にもとづいた欲望であっても、その渇望の大部分は欠乏感から起きているのであり、その欠乏感がなくなった途端、食欲でさえ失せてしまうということです。まして、精神的な有愛などはその大部分が欠乏感から起きると見ていいでしょう。

落丁した初版本が高値で売買されることがあります。落丁本ですから本来の価値は毀損されているはずですが、それより希少価値ということで高くなることがあるのです。手に入りにくいという欠乏感が渇望を大きくする例です。