夢と幻の天守閣に、桜山から慌て者の秋風らしい空気が走り抜けた。

綾乃の、麦わら帽子の黄色いリボンが風に誘われ、なびくと、松の根元でかくれんぼをしていた落ち葉達が楽しそうにかけっこを始めた。遥か彼方で、うろこ雲が、夏から秋への引っ越しに向かって、出番を待っているようだ。

家に帰った鉄平は、応接間のソファーにもたれて休んでいた。

暫くすると涼しげな風鈴の音に乗って若い女の子の声が玄関から聞こえた。

「こんにちは。上田です」

「栞、いらっしゃい、待っていたよ」

綾乃は友人を応接間に招き入れた。

綾乃が鉄平に、「親友を紹介します」と声をかけた。鉄平は散歩から帰ったままの服装で、よかったと思った。

「こんにちは、綾乃の父です」

「上田栞です。初めまして」

二人は本当に仲がいいのか背丈も同じくらいで、偶然なのか同じ様な髪型をしていた。その親友は年齢よりも幼く愛くるしく見えた。でも綾乃の話によると歌がうまくて走るのがすごく速いといっていた。

 

しばらくすると、綾乃の部屋から『夏の思い出』の歌声が聞こえてきた。鉄平はこの友人と初対面なのに、なぜか懐かしい空気を体全体に感じた。

夕方になり少し優しい風が、日暮れの町を吹き抜けた。夕立がとおり過ぎた路地は、水を撒いた夏のむせた匂いがした。

ゆっくりと辺りが薄暗くなった頃、倫太郎達三人は、もう飛んでいないであろう蛍を見に志希川へと出かけた。

この日が、滝沢倫太郎と上田栞の運命の出会いだった。

次の日、鉄平は何時もの働き蜂となり、会社に車で出勤した。月曜日は課長の自分が朝礼をする。寝起きの営業部だが、朝礼が終わると皆がやる気のモードに変身する。

ついでに女子社員もコンパクトの鏡を覗き込んで一緒に変身をした。それを待っていたかの様に電話が鳴り始める。

「はい。三桜機械工業です。有難うございます。滝沢ですね、しばらくお待ちください」

今年入社した若い女子社員が電話を取り次いだ。

「滝沢課長、二番に光洋金属の桑田部長さんからでーす」

滝沢は、苦笑いをして彼女に声を出さずに口元で親指と人差し指を小さく引っ付けて

「でーす」と伸ばさないように注意をして、保留の電話に出た。彼女は小さく首をすくめて、「分かりました」と小さな声でいった。

「はい、滝沢です、お待たせしました。おはようございます。ええ、当然参加します。はい、承知致しました。一時間早くですね、こちらこそよろしくお願いします」

営業マンの宿命か頭を二回下げながら受話器を置いた。

光洋金属の桑田部長から今年のゴルフコンペは、一時間早く来て受付を手伝ってほしいとの依頼の連絡だった。桑田部長には鉄平が新入社員の時からお世話になっていた。

その頃鉄平のミスで納期が遅れた時も、桑田部長がかばってくださった。今でも頭が上がらない大事なお得意の一人である。全てはこの一本の電話でいつもより早く行く事で偶然の再会が、過去から現代につながる思い出の引き金になるとは、この時は夢にも思は無かった。

この会社は毎年九月に創業記念を兼ねて桜山ゴルフ場を借り切り、社名からゴールドコーヨーコンペと銘打って盛大に開催される。コンペの朝は、一人でゴルフ場へと車で向かった。少し心配していた昨日の雨も上がり、秋晴れの気持ちの良い朝だった。

片側一車線の、川口団地を真っすぐ抜けている道を、運転席の窓を全開にして走った。

三十年位前に、売り出された郊外のかなり広い団地で、知り合いも何人か住んでいた。確か以前、町で広瀬さんに偶然会った時に、南海子も結婚してこの団地に住んでいると聞いていた。

里山の初秋の風が顔に当たり気持ちが良かった。洋風の住宅街の隙間には、まだ田舎の原風景が残っていた。稲刈りが済んだ水田は、夏が去り秋を迎えるわびしさを、優しく刈り取ってあった。

すすきが揺れる田畑に溜まった雨水が、朝日に眩しく反射していた。団地の家々から、朝の営みが動き始めた。

 

夢の抜け殻を乗せたツートンカラーの県営バスとすれ違った。

川口団地中央の赤信号で停車した。

停車中に窓を閉めてベートーベンの『運命』をカーステレオにセットした。

冒頭の運命の扉を激しく叩く音が心の奥に響いた。

厳かな雰囲気が車内いっぱいに満ちた。

ハンドルに両手を乗せて、ふと対向車線の先頭に止まっていた赤い車の運転手を見た。

フロントガラスに朝の光が反射した。助手席の女の子が光の中で夢中で話しかけていた。

母親らしい女性が時たま首を振って答えている様に見えた。そしてその女性が何気なくこちらを見た。

鉄平は一瞬で『あの彼女』だと気が付いた。向こうは気が付いていない様子だった。

二台の車のフロントガラスに、時空を飛び越え、徘徊していた思い出が帰って来た。

じっと見ていた。彼女の横顔に朝日が優しく微笑んだ。

懐かしい時間と思い出が瞬時に駆け抜けた。

曲のテンポが速くなった。同時に信号が青に変わった。

鉄平はサイドミラーで、走り去っていく車の後ろ姿を、不思議な感覚で眺めた。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『爽快隔世遺伝』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。