その日の夕刻前に、私は娘を連れて自宅のある新川町から食品会社のある大森町へ、約二キロメートルの道を歩いていた。大森浜の沖には夏から秋にかけて、町の中の灯りと競うように、イカ釣り船の集魚灯「漁火」が灯る。海岸から見ると水平線上に一直線に並んでいるような漁火は、函館山から眺めると面の広がりをもって耀き、もう一つの街が存在するかのような光で観光客を魅了する。これは季節限定の函館の風物詩である。

しかし、今日はそれを眺める余裕もない。ほどなく食品会社に着き専務に面会を申し入れたが、あいにく専務は用事があり、今日は帰宅してしまったということだった。専務はいつも事務所にいるので、今日も当然いると思い込み、電話を入れなかった私のミスだった。

仕方なく自宅に戻る途中、何とはなしに来たときとは違う、大門のグリーンベルトを通った。すると、テント小屋が一軒、グリーンベルトの横に出店をしている。函館港まつりにはまだ間があるのに、なぜ一軒だけ店が出ているのだろう。

そのうちテント小屋の中から、ドンドンと太鼓をたたく音がした。慌てて作ったような雑な小屋の入り口には、さまざまな電飾を施しており、よく見ると正面の戸板には『無料です。皆様ぜひお入りください』と、へたな墨書きの貼り紙があった。

今度は太鼓の他、三味線の音がして、妙な節回しの声が聞こえる。どうせ暇だし私と千穂は小引き戸を開けて中へ入ってみた。その時何かおかしい、ここに来るべきではなかった、という思いが浮かんだ。空気は澱んでいて気だるい中に鋭い悪意が含まれているような、妙な感覚だった。天井には裸電球が縦に連なっており、椅子が三脚ずつ四列置いてある。

そこに前のほうから客が六人座っている。嫌な予感がして外に出ようとしたが、体がなぜか急に痺れてきて、三列目の椅子に二人で座り込んでしまった。前の席の中年男性が振り返って言う。「もう、外には出られないんだよ」千穂を連れて何とか逃げようとしたが、どういうわけか、千穂の顔がぼやけて見えない。

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※本記事は、2022年8月刊行の書籍『除霊堂奇譚』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。