壱─嘉靖十年、漁覇翁(イーバーウェン)のもとに投じ、初めて曹洛瑩(ツァオルオイン)にまみえるの事

(3)

身じたくをして食堂に入ると、先客がいた。ひょろりとした細身の宦官が、のろのろと箸を口にはこんでいる。この長屋に住んでいる、同僚だろうか。

話しかけようとすると、みじかい叱責がとんだ。

「食事中に、よけいな口をきくな」

段惇敬(トゥアンドゥンジン)であった。少年を連れている。きのう見たのとはちがう、べつの飛蝗(バッタ)だ。細身の宦官は、私のほうをちらと見やったが、朝めしがわりの麵をすすり終わると、目礼もせずに立ち去った。

「食ったら、ついて来い。おまえの持ち分はこっちだ」

案内されたのは羊七(ヤンチー)の畜舎ではなく、ちがう堂房だった。

「今日からここで、麵をつくれ。屋台の準備だ」

「へっ?」

「まず、湯(スープ)をつくる。そこへ、打ってのばした麵を入れる。屋台を曳いて、湯麵(しるそば)を売る。わかったか。今日からそれが、おまえの仕事だ」

「や、やったことがありません」

「なくても、やるんだ。来来(ライライ)!」 

飛蝗(バッタ)少年が、かまどに火をおこす。

「一日だけ、習わせてやる。おい、徐繍(シュイシウ)をよんで来い!」

よばれて来たのは、朝、食堂ですれちがった、細身の宦官であった。

「あとを引き継ぐのは、これだ。おまえの味を教えてやれ。客から文句が出ないようにな」

そして、飛蝗(バッタ)少年を指さして、言った。

「材料は、毎朝こいつがはこんで来るから、おまえが行く必要はない。おまえの仕事は、厨房で湯(スープ)と麵をつくる、屋台をはこぶ、市(まち)で売る、そして毎日の収支をきちんとつけて、湯(タン)師兄に報告することだ。日に二百杯は売れ。売れなかったら、不足分はおまえの給料からさっ引く。いいな」

言い捨てると、段惇敬(トゥアンドゥンジン)はさっさと出て行った。

「では、はじめましょう」

徐繍(シュイシウ)とよばれた宦官が、鍋に豕(ぶた)の骨を入れた。

「ほんとうは、牛の骨をたき出すんですが、豕で代用しています。ただし、豕をつかうと、回教徒はたべません」

「これは、羊七(ヤンチー)の畜舎から?」

「さあ……そうだと思いますがね」

羊七(ヤンチー)を知っている。ということは、前から漁門で働いていた人なのだ。

疑問に思っていたことを、いろいろと訊きたかったが、そばで飛蝗(バッタ)少年が目を光らせている。

「私がこれまで出していたのは、細い麵です。蘭州の出なもんですから……」

たたいた生地を適当な長さにちぎり、両の腕をひろげたり縮めたりしながら二度、三度とのばしてゆく。

「どのあたりに店を出していたんですか?」

「そうですね……その日の気分で。でも、『売れませんでした』じゃあとで叱られますから、人の集まりそうな場所ですね」

「屋台どうしの縄張りみたいなのは?」

「さあ……あるんじゃないですか。喧嘩もしょっちゅうですね」

「そうなったら、どうするんですか?」

「そこは丸くおさめないと」  

何をきいても、奥歯にものがはさまったような受けこたえだった。私は彼との間に、言い知れぬ壁のようなものを感じた。終始やわらかな物腰は変わらなかったが、かもし出す空気が、立ち入ったことは、訊いてくれるな、と語っている。

監視飛蝗(バッタ)を、警戒しているのだろうか?

「さあ、これでできあがりです。食べてみますか?」

どんぶりを手渡された。黄金色の湯(スープ)が、湯気をたちのぼらせている。

打ちたての麵をすすった。

「おいしいです」

私は徐繍(シュイシウ)の顔を見あげて、ぎょっとした。

目に、泪をいっぱいに溜めている。彼の喉がごくりと鳴ったのは、嗚咽(おえつ)をこらえているからかもしれなかった。

わからない。どうして? どうして、あなたは、泣くのですか?

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『花を、慕う』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。