役者の見世

松七郎は鈴木春信と深川の二軒茶屋で別れ、仕事場のある人形町通に向かった。

良く晴れて、空には雲が一つもなかった。初秋の朝の風はいくらか涼しくなったように、永代橋の上では感じた。風は北から吹いて、光は南から照らした。

永代橋は長さ百十間、幅三間一尺五寸、元禄九年(1696年)に初めて架かり、

「東都の名橋なり」

と言われた。

橋は、大川の水面から五間以上の高さがあったから、眺望は良かったが、風の強い日は辛かった。松七郎は、いつものように橋の欄干にもたれ、胸一杯に海の香りをかいだ。

松七郎はこの橋からの景色が好きであった。自宅の傍の京橋から見える筑波山、毎日佇む日本橋から見える富士山、そしてここ永代橋からは安房上総の山々が見えた。

秋の青い、高い空であった。

「美しい雲だ」

松七郎は声を出して言った。

松七郎はちらっと、佃島に碇を下している弁才船を眺めた。左遠くの灰色に霞む安房上総を見て、右傍の築地の本願寺、浜御殿を見ながら、松七郎はそそくさと先を急いだ。

高く、長い橋を渡り切り、真っすぐ行くと北新堀町である。そして小網町を過ぎ、思案橋、親父橋を渡り、角を曲がれば、多くの幟の上に、中村座と市村座の櫓が見えた。

親父橋を渡ると急に人が増えてくる。人だけではなく音も色も増えた。歩くのに苦労するくらいである。町に入ると海風がやんだ。

(やれやれ)

南から北へ少し歩く、背中から陽を受けて、体が熱くなった。

市村座の手前、四軒目の『市村羽左衛門油見世』は松七郎が昔、働いていた見世である。松七郎は立ち止まって、懐かしそうに見た。昔のことが思い出された。

この頃の多くの役者は副業として見世を持っていた。中でも一番多いのが、鬢付け油や白粉を売る「油見世」や「香具見世」といわれる見世である。

役者が油見世を初めて出したのは、爽やかな口跡で女に人気のあった初代中村数馬で、元禄の早い頃、日本橋北宝町に見世を構え、『冠髪香』を売った。

市村羽左衛門油見世の持ち主は、九代目市村羽左衛門で、名門、市村座の座元である。座元は小屋主であり、興行主、役者であり、江戸では世襲であった。権威があり、芝居の世界では、唯一人「旦那」か「旦那様」と呼ばれ、楽屋うちでは福草履という、分厚い草履を履くことを許された。座元は、江戸の町に三人しかいない、中村勘三郎、市村羽左衛門、森田勘弥である。

九代目市村羽左衛門は、八代目の長男の若太夫として、享保十年(1725年)、江戸に生まれた。

父、八代目は、若い頃は、女形や二枚目を演じた美男で、人品骨柄の良い風流人であった。元々が菊屋という、大きな商家の息子で、色の白い、ふっくらとした色男であった。しかし、九代目は父に似ず、目付きが鋭く、体付きは小柄で、恰幅の良い父とは正反対であった。

初名満蔵、次いで亀蔵、屋号は菊屋、俳名家橘、紋は橘である。三年前、宝暦十四年(1764年)は、六月二日に明和と改元した。