【前回の記事を読む】ソ連軍の捕虜となる日本人が多いなか…生き延びることができた「意外な人々」の助け

第三章 東京

一味とめ

(一)三茶の奥座敷

北海道の父親が老齢で入院したのを機に、私は故郷で命の洗濯をしながら余生を送ろうと決心し二十五年間勤めてきた商社を退社した。転居のためには今住んでいる家の処理、北海道で暮らす家探し、そしてその頃二人いた息子の学校問題など様々な準備が必要であった。

その準備をしている最中、チューリッヒに住むP.Eヘルゾッグ氏からようやく私の住所を探し当てることができたとしてジュネーブまでのスイス航空の片道オープン航空券が送られてきた。中には、「加湿冷蔵庫生産でお世話になった。カメラ片手に遊びに来てくれ」との招待状がしたためられていた。

一九八七年、私はモスクワ通いが続いていた頃、ヘルゾッグ氏の要請を受けてモスクワからの帰途スイスのフォルスター社に立ち寄り、同社が持つ加湿冷蔵庫「ロングフレッシュ」の特許権使用許諾を取りつけて三洋電機によるライセンス生産に成功、新会社を設立したことがあった。

一度田舎に引っ込んでしまうといつヨーロッパに行けるかどうかわからないとの思いもあり、私はヘルゾッグ氏の招待を受けてジュネーブに飛んだ。

その旅行が契機で無から有を生み出す私の技術屋根性が再び頭を持ち上げ、実家のことは北海道に住む弟にお願いして日本には未だ存在していなかった吸水バッグ「アクアボーイ」とドラム式洗濯機「マルバー」、二つの開発事業に取り組むことになってしまった。その経緯は初作『島影を求めて』で書いた通りである。

一方、事業を進めるため会社の所在地として三軒茶屋を選んだ。自宅から交通の便の良い中央林間を始発とする田園都市線の急行電車が止まる駅を選んだのだ。