せん妄が見せた世界

そして私の瞳の中に忍者のような服を着た武士が住み着いた。私は彼を真田幸村と即座に認識した。その顔が有名な俳優だったからだ。病気になる前に見た舞台で、彼は真田幸村を演じていた。頭の中で記憶とせん妄がリンクしたとしか思えない。だいたい自分の瞳を鏡もないのにどうして見ることができたのか、残念ながら説明できない。

幸村は赤と青の線を豪快に刀で切り刻む。切るたびに赤や青の飛沫となって空中に飛び散る様は、本当にきれいだった。どうやらその時、血漿交換の治療中だったようだ。私の血液を抜いて、悪いものを取り除き、再度私の中に戻す治療を3時間していた。

そうなると赤と青の線は静脈と動脈だろうか。せん妄は私のおぼろげな知識までも掘り起こしたのか。その後私は勝手に幸村を用心棒として、時々せん妄に登場させていた。

しばらくは幻覚だけで、音のない世界、無声映画のようだった。ある時目覚めると、病室の様子が違う。あちこちにドアがついていて看護師さんは自由に上に行ったり、地下に行ったりしていた。地下に行ったと思ったのだから、私は自分の病室が1階になったと思っていたらしいが実際は最上階の病室にいた。

私はベッドではなくストレッチャーに寝ていて、点滴もついていた。実は4日間続けた血漿交換法の治療の時、私はストレッチャーで移動してそのまま治療を受けている。現実とせん妄は微妙に交じり合って進んでいった。

ふと気がつくと天井から血が滲んでいた。

「おい、ここからだせ! 早くだせ!」

ここで初めて声が聞こえた、幻聴だ。向こうのほうで看護師さんたちのひそひそ声がやけにはっきりと聞こえてきた。

「殺人犯が騒ぎ出しました」

看護師さんが電話でどこかに連絡し始めた。ドン、ドンとドアを激しく叩いている。逃げたくても動けない私の恐怖は頂点に達したが、声が出ないから助けも呼べなかった。やがてパトカーのサイレンが近づいたところで、私はICUで目覚めた。

一晩中震えていたと思っていたが、実際はほんの数分なのかもしれない。現実の私は声も出ないし、手足も動かず、何があっても寝ているしかなかった。そんな絶望感がせん妄に影響したのだろうか。

本当にひどい目にあったと思っていた私は、転院したいから夫を呼ぶように要求した。ICUにいる患者が転院したいなどと、よく言えたものだ。

再び目を開けると、また違う病室にいた。そして夫が何か怒鳴りながら病院の廊下をずかずか歩いているのに気がついた。

「夫を呼んでください」

私は訴えるのだが、医師が2人がかりで私を説得していた。夫の声は幻聴で、医師の説得は現実の出来事らしい。急速性重症患者の私が退院したいと言い出し、医師はさぞかし驚いたことだろう。この時点ではせん妄の影響なのか、ごねているブラック患者か判断はついていない。

※本記事は、2022年1月刊行の書籍『ある朝、突然手足が動かなくなった ギランバレー症候群闘病記』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。