「朱里。ちょっといい?」

いいも悪いも、母親は私が座っているソファーにもう腰かけようとしていた。何。珍しく家に居るときは、必ず何らかの要求がある。

「朱里、結婚する気、ない?」

はあぁ。ないに決まってるし。何を言い出すかと思えば、爆笑もんだ。

「いい人、いるのよ。朱里のこと、小さいときから知ってるから安心だし」

この突拍子もない会話を断ち切る方法を、笑いを堪えて考えた。

「花器を扱ってる加納(かのう)屋さん。知ってるでしょ。そこの三男さんなんだけど、あなたより四歳上の二十五歳。ね、ちょうどいいでしょ」

知らん、知らん。知ってても知らん。ちょうどいい、の意味も不明だ。精いっぱいの反発を込めて、首を横に振る。

「なあ、なんで私がその人と結婚せなあかんの。ありえへん。それに、もうなんべんもなんべんも言うてるけど、私はここを継がない。興味もないし。それやのに結婚?ほんまに、ありえへん」

立ち上がろうとする私の袖を、母親は思いがけない力で引っ張った。その手を、思いっ切り振り払う。

「ええ加減にして。何もかも自分の思い通りになると思うたら、大きな間違いやから」

怯むかと思ったのに、母親は私の真っ正面に立って詰め寄ってくる。

「そこまで言うんだったら、この家から出ていったら。二十一年間、何の不自由もなくお金の心配なんてしたこともないあんたが、どうやって一人で生きていけると思うてんの。パン一つ、買ったこともないくせに」

パンくらい夜の町を放蕩しているときに、なんべんも買うてるし。お米なら、買ったことはないけど。胸の中で言い返しながらも、母親のまさかの反撃に言い返す言葉が見つけられない。

何もかもに満たされた部屋で何にも満たされない私と、これ以上は何も言わせまいとする母親との対峙が続く。

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※本記事は、2021年11月刊行の書籍『渦の外』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。