研修医

昭和57年4月

梅澤良平は、東京の有名私立医大を卒業した。2年間の浪人生活を含めて8年間東京で過ごした。卒業後に、故郷に近い京帝大学病院を研修先に選んだ。卒業と同時に、日本でも指折りの母校を離れたのは梅澤一人だった。どうしても東京の喧騒(けんそう)には馴染め無かった。

主に心不全や心筋梗塞などの循環器疾患と腎臓病患者を対象とする第3内科から研修を始めた。受け持った患者の中に、40歳代の女性がいた。ベッドの名札には、岡本良子と書かれていた。彼女は高安病(注1)と呼ばれる大動脈が侵される病気の患者であった。

十数年前に発症し、それが眼動脈にも病気が進み両眼の視力を失っていた。急性期の患者が多い循環器内科では、患者は割と短期間で退院していく。その中で、彼女の入院は既に十年が過ぎていた。体の状態は安定していたが、失明しているために所作は手探りである。しかし、いつも端正に身づくろいをし、上品な物腰で看護師に対応していた。

梅澤は、診察や点滴で訪れた際に、病気になった頃の様子や、失明してしまった経緯など、細かいことまで質問した。岡本は、何度も聞かれたであろう質問にも面倒くさがらず、一つ一つ丁寧に答えてくれた。

梅澤は、彼女との会話が好きで、ついつい、長居をした。病気になる前の生活や子供時代のこと、毎日面会に来るご主人との出会いなど、私的な話題にまで広がることも多かった。梅澤が白衣を着ていなかったら、見舞い客と思われただろう。梅澤には、彼女との会話が、一日の仕事の疲れの癒しであった。


(注1)高安病
おもに大動脈など太い血管をを犯す病気で大動脈炎症候群と呼ばれている。1908年に眼科医の高安右人博士が報告したことから、高安病とも呼ばれる。