【前回の記事を読む】英語ブームに沸く戦後の日本で…一人の翻訳家が「英語習得を諦めるべき」と一喝した

才能について

「はじめに」で私は「その才能を持たない凡人」と自分を定義した。しかし、そもそも英語(外国語)習得における才能とは何だろう?

何人かの「達人」と称せられる先人の経歴を見ると、才能はあるに違いないが、「環境や機会に恵まれた」という感を否めない。つまり、「天賦の才能」をもった達人もいることは確かだろうが、英語を使わざるを得ない環境に育ったとか、親の都合によって英語圏で生活したとか、留学する機会に恵まれたとかいった「成長環境」とも言うべきものがかなり影響する。

しかし、留学しただけでは英語を使えるようにはならない実例もいくつか私は知っている。したがって、その機会を有効に生かして、「努力できる資質を持った人」だけが「達人」の域に到達できるのであろう。

私自身はと振り返ってみると、英語圏の生活や勉学の機会はもとよりなく、生まれも育ちも片田舎の農家の次男坊で、田舎の県立高校卒業後すぐ就職、そして東京の下町での住み込み店員というおよそ外国語の勉強などとは縁遠い環境の中で過ごさざるを得なかった。だが、それが弁解として正当性があるとは言えないかもしれない。

そのような環境にあっても努力の余地はあり、苦学して達人の域に達した人もいるという反論があろう。そういう達人は「才能がある非凡人」だと思う。あることを好きになり、それをがむしゃらに追いかけていける人、芸術のために生活を犠牲にしたり、目的のために家族や友人を捨てたりできる人間が「才能ある非凡人」と言えるのではないか?

何も家族や友人を捨てたりしなくても、好きなことのためにがむしゃらに突き進むことのできる人もいることは確かだ。また、数か国語、いや十数か国語を話せるヨーロッパ人もいると聞くが、そのような人はまれにみる天才か、特別な環境に育った人であり、私から見ると「例外的才能を有している人」としか言いようがない。

私は、どう考えても凡人であり、不安定な生活を避け、安全な道を歩こうとして、周りの人と不和や軋轢(あつれき)を起こすようなリスクを避けて平々凡々と生きる人間であった。つまりは「才能がない平凡人」と定義できるだろう。