第1章 山心の黎明期

【高崎観音山】虫からもらった生きる力 ~1959年2月(22歳)~

大学時代に立った人生の岐路

「そのとき歴史が動いた」という言葉があるが、人間なら誰しもが「自分が大きく変わったのはあのときだ」というときがある。

私の「そのときは」大学3年のときだった。昭和31年4月、私は1年間浪人して、立教大学理学部数学科に入学した。当時、蔦の絡まるチャペルや図書館があるこの大学には、3年生の経済学部に長嶋茂雄さん、文学部に野際陽子さんが在学していた。

入学当初、私は午前4時に起きて群馬県にある実家から高崎駅まで30分ほど自転車を走らせ、上野行きの各駅停車に乗り、赤羽駅から池袋駅西口へ行き「東横百貨店(現在は東武デパート)」の改札口を出て、思い出横丁を抜けて大学に通っていた。到着時刻は午前8時ごろ。帰りも同じコースだ。

すぐに時間のかかる通学が大変なことがわかったので、9月からは高校時代の友人(青山学院大学)と二人して、東上線ときわ台駅近くで下宿生活を始めた。その後、群馬県庁に勤めていた兄の紹介で、群馬県学生寮の「上毛学舎」に入れてもらえることになった。

学生寮は小田急線千歳船橋駅近く。いまでもそこにある、上毛学舎が新築されたころだったので、同時入寮者がたくさんいた。学年もいろいろ、大学もいろいろだ。

こうして、私はたくさんの友だちを得て、寮生活を満喫していたが、大学3年生になってから抽象代数学だけがどうしてもわからなくなり、困り果てた。大学3年生の後半から、寮の同級生の就職活動が活発になってきたが、私はメチャメチャ苦手な抽象代数学の単位が取れそうもなく、大学4年生に進級できるか心配な日々。そのような状況なので、同級生が話す「就職の話題」など、とてもとても……。辛い気持ちを隠しながら生活していた。

もう1日だけ

昭和34年2月。抽象代数学のテストは50点。ついに留年が決定した。私の学科は、1科目でも60点以上取れなければ進級できないのだ。

当時、高崎の実家からは毎月生活費として8000円を兄から仕送りしてもらっていた。勤め始めて間もない兄の給料は5000円くらいなので、父母からの稼ぎを加えていたと思う。そんな父母や兄のことを思うと、進級できなかったことは本当に心苦しかった。

留年したら寮には恥ずかしくていられない。実家には申し訳なくて帰れない。(俺はどうすればいいんだ! どうすれば……)そう思う日が、何日も、何週間も、何ヵ月も続いた。

疲れ果てたある日、小田急線の線路近くを歩く私は(電車に飛び込めば、この苦しみから逃れられる。楽になりたい……)との衝動に駆られた。しかし、そのとき母の声が聞こえてきたのだ。

「おめえ、バカなことするんじゃねえよ!」

もちろん、母はそこにはいなかった。それなのに母の声が確かにしたのである。私はそのとき、(もう1日だけ生きてみよう……死ぬのは明日でもいいじゃないか)と思い直すことができた。

ただ、留年のことを家族の誰にも打ち明けられず、兄が「就職はどうするのか」と手紙をくれ、私はいたたまれない気持ちになった。ずっと隠し続けることはできないので、私はある親族を頼ることにした。

結婚して高崎市内に住んでいた私の叔母さんの旦那さんが、私には話しやすい人だったので、留年のことを実家に話してもらおうと手紙を書いたのだ。そして、叔父さんからは、「話しておきましたから、安心して実家に帰って来てください」と返事がきた。

※本記事は、2019年9月刊行の書籍『山心は紳士靴から始まった』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。