第3章 AI INFLUENCE

第2項 H2=水素分子

『君の名は。』という映画がヒットした。私は“いいタイトルだなぁ”、と感嘆した。そのタイトルを耳にしたときに、得も言えぬ安心感を得たのだ。それからその理由について考えた。

私は、誰かに私の名前を尋ねられる事により安心感を得ている。その問い掛けはどこか懐かしく、私が私の名前を思い出す契機となっている。

私は私の名前を思い出す必要があるほどに、別の何かになっている。別の何かとして扱われている。私は、自分でも意図せぬままに、気付かぬうちに、別の何かになっていた。それは何だろう。

何日か経ったときに漸く、答に行き着いた。

それは、“記号”なのだ。

当て嵌められるために必要なこと、自らを抽象化するために、私は“記号”になっていた。

記号になるとは、どういう事だろうか。

それは、比喩的に言えば“分子”の様な存在になることだ。

例えば、一言に「机」と言っても、色、形状、素材、それらを併せれば様々な机が存在するが、分子は「H2=水素分子」というようにどれも同じ性質として扱う事ができる。

分子は、原子の結合式がイコールである限り、みな均質である。

検索とは、分子を型作る原子の結合式を発見することだ。人を分子に例えるとき、分子の元となる原子は情報だろう。

我々は固有性を捨て、同じ性質として扱うことの出来る分子の様な存在になることで、そして、自分がどの様な構成要素の存在であるかを人工知能に伝えることで、正確に当て嵌められ、人工知能のサービスを享受している。検索を開始する操作をしたとき、あなたの存在は分子として、情報世界に指先からジョイントする。

例えば、結婚相手を検索するなら、「俺の名前は~太郎、よろしくな♪」では話にならない。

あなたは、自らを年齢、性別、職業、年収、婚歴の有無、趣味という要素の組み合わせとして構成する(実際はもう少し項目はあろう)。すると、例えば「32歳、男、自営業、年収400万、バツ1、ギター・読書」とか、「26歳、女、会社員、年収320万、未婚、料理・音楽鑑賞」といった分子が出来上がる。

女性が化粧品を求めるなら、「年齢、職種、好きな女優さん、肌のコンディション、予算、これまでの購入歴」辺りを入れれば良い。

もっとシンプルにロックバンド“オアシス”のCDを検索するとしても、耳が“オアシス”の音を求めている分子と再生音楽のマッチングが為されるという意味で同様だ。

検索が上手くゆき、ある対象とあなたがめでたく結び付けられたとき、それはあなた自身のようであり、あなた自身ではない。一定数の、同じ配列記号を持ったあなた以外の人間もそこには含まれるからだ。

婚活サービスにおいてあなたが紹介される事になった人間にあなたの替わりに同じ記号の別の誰かを紹介しても、問題はない。均質であるゆえに、代替性が利く。ヴァーチャルに分子化されたあなたは効率よく的確に処理される。

思い出されるのはかつての、履歴書を書くときの緊張感と違和感。

どれほど正直に誠実に、そして筆舌を尽くして自らの属性を並べ立てたところで、本当のところの自分を紙面に現すことは出来ない。出来上がった履歴書を手に取り、眺め、「俺、こんな人生だったっけかな」と、溜め息をつく。

「まぁ、嘘は書いてないよな」と後ろめたさに似た変な感情をなだめ、アピール欄もそこそこに、切り上げ、ファイルに閉じて鞄にしまう。

しかし、検索を続けるに連れ、対象を、自分を解体し、均質化し、便利な解を迅速に得ていく事で、その違和感にも慣れていく。「お互い様だし、現に上手くいっているのだからこんなものなのだな」と学習する。

扱われ易い自らの分子式の現し方を自らの内にいくつもストックしていく。“自らのアイデンティティ”を合目的的に時宜に応じて組み換える。対象(他者)も同様に記号化する。

これまでにも、国民総背番号にせよ派遣社員の流動性にせよ、我々の扱われ方において匿名性や代替性の問題は繰り返し指摘され論じられてきた。ここで強調したいのは、掌(てのひら)サイズのシステムの恩恵を享受することにより、我々自身が、謂わば能動的に進んで自己をそして他者を、習慣的に記号・分子化することで日常の諸問題を処理するようになったという点だ。

他者は自己にとっては分子であり、自己は他者にとっては分子である。

『世界に一つだけの花』をみんなで熱唱し、「みんな違うから素晴らしい」という標語が福祉施設の社用車に貼られている。一世を風靡(ふうび)する歌のタイトルや決まり文句化した新たな標語は、往々にして自然な向きで喪われつつあるものへの警鐘だ。

固有性への漠然とした危機意識。

みな、自分が薄まっているような気がしながらも、日々の処理を簡易化するために、自らを進んで分子化する。均質にする。

ちなみに分子は、一時的な現象レベルの結晶は結ぶが結合はしない。

とにも我々は、自らの名前を忘れ、分子レベルに解体された。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。