上北郡の調査―小川原湖南西部

この後、上北郡七戸町に入り、中谷の妻セツの弟菅原正志と会い、ともに八月一〇日まで、県史蹟調査委員の成田券治(憲司とも。一八九二~一九六三。七戸町町会議員等の後、郷土史研究に関心を持ち、七戸城跡の国史跡指定に尽力)とともに七戸町の竪穴を見学し、上北郡榎林村の貝塚(現七戸町二ツ森貝塚)を調査した。

貝塚では当初、計四か所の調査を予定していたが、洪積世のカキ化石層であったり、二ツ森地区の貝層では遺物が発見されなかったりの状況、さらに寒さと降雨続きのため一か所だけの調査となった。

しかしこれも丸一日は調査できず、貝塚のやや北側斜面を三×二メートルほどの広さで調査し、円筒土器・鹿角・骨角器などあわせて一箱を得たのみであった(清野一九六九)。

調査中の宿は、成田が七戸町で営む成田旅館であった(今井一九五七)。ちなみに、この貝塚は一九八九年(平成元)に筆者の県立郷土館勤務当時、調査を行なっており(青森県立郷土館一九九二)、その後、天間林村、合併後は七戸町教育委員会によって史跡整備・調査が行なわれている。