中津軽郡の調査―岩木山北~東麓、青森

八月六日(五日の可能性もある)に中津軽郡裾野村(現弘前市)の役場を訪ねたあと、巌木山神社の宮司長見恒久の好意で陸奥式土器や青竜刀形石器などの出土品を見せてもらった。

十腰内(とこしない)遺跡(現十腰内(一)遺跡)(青森県埋文一九九九・二〇〇一)、やや南の伝次森山の遺跡(現十腰内(二)遺跡であろう)を発掘し、後者からは、薄手式土器(縄文後期の土器)が多量に出土した。また、一キロメートルほど南にある御月山の遺跡では伝次森山と同様、包含層は荒らされてはいなかった。

東隣にある十面沢(とづらざわ)では、広大な湯ヶ森の遺跡がところどころ掘られており、遺物はまったく発見されなかった。この後、丘を一つ越えて北東方向の清水森(現弘前市)の遺跡を発掘し、厚手の土器(縄文中期の土器)が出土した。

また、中津軽郡の高杉村(現弘前市)役場を訪ねたあと、遺物の所有者宅で資料を見、岩木山北東麓にある同尾根山遺跡(尾上山遺跡であろう)を調査し、陸奥式後期(縄文晩期)の土器が出土した。

ちなみにこの北東麓は、昭和四一~四四年、筆者が学生の頃、たびたび踏査した遺物を採集した地域でもある。七日には、青森市の県庁学務部教育課に地方視学官の福士百衛を訪ねて今回の調査への配慮に対するお礼を述べた(人類学教室からは県庁あてに事前に協力依頼状を出していた)。

そして、当時収集家として知られていた元東京人類学会員の佐藤蔀宅(現青森市松森二丁目)を訪ね、十腰内遺跡などの津軽の出土品を見たり、当時の亀ヶ岡発掘の話を聞いたりした。ちなみに、佐藤宅で中谷が作成した実測図のカードは東京大学総合研究博物館に保管されている。