兆し

疑惑

「そんなことがあったのか」

吾郷は憤懣(ふんまん)やるかたない、といったふうに水割りを(あお)った。

「そのうちネット上でも書き込みされるし、どこで調べたのか長谷部長の自宅にも昼夜問わずクレームの電話がかかるようになった。なかには脅迫めいた内容もあったらしい。警察に相談したが、刑事事件として立証するのは難しい、と力にならなかった。やがて奥さんが(うつ)になった。とうとう長谷部長も耐え切れなくなって役所を辞めたってわけさ」

「あってはならないことだ」

吾郷は首を振った。高取はグラスに口をつけてから続けた。

「ここから先はあくまでも噂だ。ここだけの話にしてくれ」

「もちろんだ」

「どうやらそのクレーム攻撃はあるNPOと黒岩産業が後ろで糸を引いていたらしい」

「そうなのか」

うん、彼は水割りを飲み干した。

「今日はここまでにしておくよ」

「おいおいトリ。それはないだろ」と吾郷が言ったとき、

「ヤーくん、それはないわよ」

妻の里美がリビングに入ってきた。

「なんだ、サミ。聞いてたのか」

「ごめん。面白そうな話だからつい」

「何が面白そうなだよ」

高取はあきれ顔で言う。

「でも夫婦の間で隠しごとはなしよ」

そう言いながら里美はグラスを持ってきて水割りを作り始めた。高取は、しょうがないなあ、とつぶやく。

そうこなくちゃ、里美は水割りをぐいっと飲んだ。

「ここから先は……」

「また、ここから先、か」

「セキュリティは何重にもしないと」

高取はもったいぶって言った。

「わかったわかった。続けてくれ」

「ここから先は本当に極秘だから……。実は佐分利市長と黒岩産業がつるんでいるって噂がある」

「まあ想像できる話だな。でも噂だろ」

「なんだ。驚かないのか」

高取がつまらなそうに水割りを飲む。

「これまでの状況を見れば、あり得る話だよ。問題は証拠だな。証拠は(つか)んでるのか?」

「証拠があれば『噂』にならないだろ」

「そりゃそうだ」

でも、高取がグラスの氷を揺らす。

「でもなんだよ。もったいぶって」

「市長選直後からその噂はあった。それに」

「それになんだよ」

「ここから先は」

「またか」

「あ、つまらなそうな顔をした。話すのやめようかな」

高取がふくれ顔でそっぽを向いた。