11月18日(水)

兄の死、良子の再入院(2015年11月18日)

朝からどんよりしていたのであるが、午後から雨になった。このところ、よく降るように思う。

今日は栃木の工場へ行った。水曜日が定例になっている。5時45分に家を出る。今朝も良子は私の持ち物をチェックし、表まで見送ってくれた。

ただ、いつもは扉の外まで出て来るのであるが、今日は扉の内側で「行ってらっしゃい」と言った。

11時に、あい子より、おじさんが亡くなったとの知らせが入った。

すぐさま帰りの電車に乗った。その車中へ、お母さんが入院した、とのあい子からのメールが入った。

長兄はグアムで戦死した。

次兄は満州へやられたのであるが、なぜか不思議に、実戦には一度も遭遇しなかったと聞いた。しかも終戦間際まで満州にいたのでなく、その前に国内配属になった。その意味では極めて幸運であった。そういう部隊もあったのである。

ただ、部隊内でのイジメはひどかったと、ポツリと漏らしたことがある。次兄はついに、兵隊時代のことをほとんど語らなかった。

性格は、童話の主人公にしても良い、底抜けに善良な人物であった。人間の質としては、私なんかよりうんと高みにある人だった。

90歳。兄は満足の中で私たちに手を振ったと思う。

ということで、今夕はとりあえず良子を訪ねた。

鼻からチューブが入れられていた。

ただ、それなりによくしゃべるので、多少は安心した。

帰って徳島行きの手配をした。明日朝、徳島へ帰る。

徳島空港でのレンタカーも手配した。

11月19日(木)

兄の葬儀

ANAの8:55羽田発で徳島へ向かった。P4駐車場に車を置いた。

11時に徳島空港に着き、レンタカーを借りて、正午には斎場に着いた。葬儀は午後13時からであった。

参列者はすべて身内だった。

90歳の老人の、それも最晩年は寝たきりになった人の死であるから、突然の驚きはなく、みんなの表情は穏やかだった。私は嫂あによめに慰労と感謝の言葉を掛けた。この人も優しい人である。長男の面倒も見てくれた。長男は姪たちと姉弟のように育った。

老父母が育ててくれたのであるが、それも嫂の優しいサポートがあったからである。良子はこの人の姪である。

兄は仏さんのような人であった。父母を含め私の親・兄姉たちには「慈悲」があった。

私が辛うじて今の心に踏みとどまっていられるのは、この人たちに囲まれていたからである。「兄さんは満足して死んだと思うよ」と私は嫂に言った。

兄は90歳迄生きたのが不思議なほど、体に苦痛を持った人だった。

毎日毎日の排便に苦しんだ。1時間は要した。それに伴って脱肛に近い痔疾があった。

これらの補助を、嫂は生涯続けた。具体的にどのような動作なのか、ほんの表面しか知らないが、大変なことだと思った。

更に「痛風」があった。痛風というものが一般に知られておらず、田舎のお医者さんはなかなかそれと特定できなかった。従って見当違いのクスリを飲んでいた。兄は、酒は一滴も呑まなかった。食べ物も脂っこいものはきらいで、体は痩せ形、痛風にはもっとも縁遠い人である。

随分長く苦しんだあと、ようやく痛風と診断され、適切なクスリを得て、定期的な激痛から逃れられた。しかし足の関節のみならず手の指にまで、夥しい数の瘤ができて、最後まで消えることはなかった。

痛風の痛みは、質としては、私も知っている。

40歳のときに一度、50歳で一度、発作があった。骨にひびが入ったと思える痛みだった。あるいは釘を打ち込まれるとはこんなものかと思った。原因に思い当たるものがなかった。

私はとっさに、これは兄貴のやっている“痛風”ではないか、と思った。

病院へ行ってそれを話すと直ちに血液検査をした。尿酸値が標準をはるかに超えていた。3日ほどで痛みは収まった。

酒について私は尋ねた。そのときの先生の回答は、

「尿酸値が高いのは、尿酸を作る能力が高すぎるか、作る能力は標準だがそれを排出する能力が不足しているか、いずれにせよ体質的なものが9割で、酒や食べ物の要因は1割に過ぎない。従って、クスリを飲んでいれば直るというものではない。酒を呑まなければ発作が出ないというものでもない。クスリは一生飲まなければならない」

これで、酒もビールもモツ焼きも知らない兄貴が痛風になった訳が分かった。

10年目、50歳のときに、2度目の発作が来た。

そのときの先生には、「アルコールは控えた方が良い」と言われた。

「10年に一度の発作を避けるために酒を控えることは、私はしません。10年に一度の痛みなら、それは覚悟の上で酒を呑みます」

「それは人生観ですからねえ」と先生は笑った。酒の量は更に増えたが、それから20年余、なぜか3度目は来ない。

父と兄は剣道の甲手を作る職人だった。おそらく日本一だったと思う。作る数は少なかったが、値段は飛び抜けていた。すべて注文生産であった。

戦後、GHQによって日本の古武道は禁止された。

禁止された競技に道具の需要はない。糧道が断たれたのである。私はまだ幼稚園かその前の幼児だったが、肉体労働に従事して帰る兄を記憶している。父が何をしていたか記憶にない。何か手間賃仕事をしていたのだと思う。

私は戦争も軍隊も知らない。戦後の食糧難も(腹は常に減っていたが)実際の苦労は知らない。兄の世代はそのすべてを、正面から受けとめてきた人生だった。それでいて限りなく優しい人であった。さようなら、兄さん。

導師は常光寺の住職だった。

母はこの方のお爺さんご住職に導かれ、父はお父さんご住職に、そして兄は三代目に導かれるのである。ご住職の体形はお父さんより、驚くほどお爺さんに似ている。不思議なものだと思った。

※本記事は、2019年3月刊行の書籍『良子という女』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。