六月二十八日(東京都杉並区)

自由なる人生とは、死と他者という内憂外患に絶え間なく晒された不均衡の上に辛うじて成立する楼閣である。いつしか僕の中に形成されたこんなイメージは、当然ながら、人生に向き合う僕の姿勢を明るいものにはしない。

明日は死と他者という不確実性を孕むという意味で、今日よりも確実に悪い。これも僕の確信だ。だが同時に、だからこそ、限られた僕の持ち時間は、僕のためだけに使わなければならないという信念を強固にしたとも言える。

仮に、永遠に安定した絶対的な自由があったとしよう。それは魂の平安を保証するだろうか。否、それはきっと僕たちを発狂させるだろう。有限であることを知っているからこそ、自由は稀少性を獲得し、その光彩を際立たせるのだ。

自分の人生を他者との無用な交わりに費消するべきではない。人間がぶら下げる誘惑の人参には神経毒が含まれている。地位も名誉も富も、自由の対価としては決して釣り合わない。世俗の利益に釣られて、かけがえのない自由を売り渡すような愚を犯してはならない。

テレビには、どこか遠くの紛争地域の難民キャンプと思しき茶色く煙っぽい風景が映し出されている。その中で、骨と皮だけでつながった紙のような体の少女が、カメラ越しの僕に必死に何かを訴えている。痛々しく瘦せこけた体とは対照的に、その黒く大きな瞳は燃えるように輝いていた。だが、その異国の言語の悲痛な叫びは、僕には理解ができなかった。

僕はテレビを消すと、吸い殻でハリネズミのようになった灰皿にタバコをねじ込んで立ち上がった。ベッドがかすかな悲鳴を上げた。

時間はたっぷりある。今日は近くの喫茶店で、本でも読んで過ごすことにしよう。