学校給食では毎日牛乳を飲んだが、淑子は家でも真砂子と純平用に牛乳の宅配を頼んだ。あの時代の流行でもあったカメラに凝っていた修治は高校の生物教師だったが、地方公務員の給与でその道楽を賄いつつ、二人の子供の栄養バランスに気を配るのはそれほど簡単なことではなかっただろうと思う。

だが真砂子も純平も、小学校を卒業する時には背の高さもクラスで高いほうから数えて何番目という具合に育ち、特に純平は運動面でも目立つようになり、中学でも高校でも、さらに大学でもバレーボール部の主将を務めた。もっともこれは、若い頃に陸上競技で二度国体に出場している修治の遺伝が大きかったのであろうが。

真砂子は大分県の成績のいい子であれば誰もが目指す県立高校に入り、九州大学の文学部に進んだ。卒業後は総合職として都市銀行に入社し、五年目に一流商社マンと結婚して今はドイツだ。真砂子と入れ替わりで同じ高校に入学した純平も現役で洛北大学理学部に入り、修士過程を終えると東京にある生化学総合研究所に迎えられた。

二人とも両親との関係においても特に問題は起こさず、まあ「いい子」のまま育ったと言っていいだろう。母親もそれを喜んでいてくれたはずだ。体の弱い母親に大きな心配を掛けずに来たことは、純平も自分を評価している。

高校教師だった父親の影響もあったのだろうか、元々生物科に興味があった純平は、大学では細胞学を専攻した。大学院を卒業後、生物関係の研究職を選んだのには幾つか理由がある。

誰にも言っていないが、そのひとつには病弱な母のことがあった。対症療法ではなく、もっと根本的な生命化学の立場から、母の健康を守ってやれないだろうかという思いがあったのである。

その母さんが死ぬ。死んでこの世からいなくなる。それはとても恐ろしいことのような気がして仕方ない。だが同時に、淑子のこれまでの状況を客観的に見て、自分はその覚悟をしつつあるのだ。嫌だが、怖いが、決して避けることができないこと、誰もが通らねばならない関門なのだと、純平は思った。

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