いつものパンの店でパンを買って、結愛は家路(いえじ)を急いでいた。今日は月曜日、ワオが来る日だ。

ワオは毎週休まず通い、そろそろ2か月が来ようとしていた。ワオが来る前に明日の朝食のパンを買うのが結愛のローテーションになっていた。もう角を曲がればマンション、というところだった。

「結構なご身分だな」

聞き覚えのある低い声が、結愛のすぐ側で聞こえた。その瞬間、結愛は全身の血が逆流するような寒さを覚え、心臓は危機を告げた。

「あそこのパン屋、高いことで有名だろ。そんなパン屋でお買い物ですか、成功者は俺みたいな失業者とは違うねえ」

「ゆ……行彦くん……?」

角で結愛を待っていたのは、かつて結愛を殴った元の彼氏、行彦だった。髭を伸ばし、髪は落ちかけたパーマをそのままにしており、前髪が目を半分覆っているが、その目は落ち窪み、なぜか不思議な炎を燃やしていた。

「ああそうだよ。最後に会ったのは4年前だから、もう覚えてないんでしょうな、先生」

「どうしてここに?第一、失業者って?」

ガン。大きな音が響いた。行彦が持っていたチューハイの缶を道路に投げ捨てたのだ。

「うるせえ!お前が俺を捨てたのは、俺のパティシエとしての才能に嫉妬したからだろ!勤めてた店が潰れたんだよ!再就職もままならねえ!それもこれも、お前が裏で手を回しているのは分かってんだぞ!俺をパティシエとして成功させねえようにな!」

「な、何を言ってるのよ!私は知らない!」

行彦はしっかり結愛を見据えているものの、言っていることは支離滅裂だ。結愛は強気で言い返しはしたものの、足がすくみ、全身が震えて逃げ出すことができなかった。せめて警察を呼ぼうと携帯電話を鞄から取り出そうとしても、手に変な汗をかいて指もまともに動かず、鞄の中で手が虚しく泳ぐだけだった。

「お前が開いている菓子教室あるだろ。あの講師を俺に代われよ」

「……つけてたのね」

行彦は引っ越してからの結愛のマンションを知らないはずだ。

「お前は俺の人生に責任を取るんだよ!」

行彦が上着のポケットに手を入れたその直後、何かが日の光に鈍く輝いた。刃物、そう思って座り込んで頭を抱えた結愛の前に、差し出されたのは銀色の万年筆と婚姻届だった。

「なあ、講師を代わるのが無理なら、俺と結婚してくれよ。頼むから。生活の面倒見てくれよ、お前のことまだ好きなんだよ、なあ」

そう言って行彦は結愛の手首を無理矢理掴んで、署名させようとする。

「離して、やめて、嫌だ!」

掴まれた手を振りほどこうと暴れる結愛に、気持ち悪く行彦は笑いかけてくる。黄ばんだ歯が不気味に光った。