第二章 仮説社会で生きる欧米人

スポーツも仮説である!?

今まで欧米の政治と権力、そして経済体制までもが仮説で成立していることを話しましたが、スポーツも仮説から成り立っています。日本人は仮説が苦手であるものの、スポーツは欧米に劣らず好きな人が多くいます。しかし、そのスポーツも仮説で成り立っていると聞くと、訝る人が多くいると思います。

いまのスポーツはルールが基本にあり、ルールのないスポーツは無謀で危険な喧嘩みたいなものになります。オリンピックは古代ギリシャを発祥としていますが、オリンピックはルールを基に選手と観客が一体となって「祭典」として発足したものです。

スポーツはいろいろな種類があり、オリンピックも数多くの種別から成り立っていますが、スポーツはお祭りであるがゆえ、ルールは永久不変のものでなく、あくまでもスポーツを正しく、楽しくするための仮説です。それ故、スポーツのルールは常に変化する運命にあります。

たとえばスポーツが危険なものになり、祭典として相応しくないとなればオリンピック委員会はそのスポーツを中止したり、ルールを変更し、新しいルール作りを行います。民主主義は国民が主役であるとする考えを基本にし、国民が権力者を国民の選択で変更可能な強固なシステムとして作り上げています。欲動の渦巻く株式市場も資本主義の維持、発展のため厳格な完全競争の市場倫理が要求されています。

スポーツもルールで成り立っており、ルールはスポーツの命です。しかし、スポーツは厳格に守られるべく政治や経済と趣が異なり、選手と観客を巻き込んだ「祭典」という色彩があります。それ故、ルールが祭りに相応しくなくなれば、ルールの変更を容易に行います。

日本は古くから、果し合いや決闘らしきものはありました。神社では弓を射る神事等がありましたが、選手と観客が参加し楽しむスポーツらしきものが存在していません。

昔から民が楽しむスポーツが日本に存在しないことは奇妙な観に打たれますが、強いて日本のスポーツを追ってみると、江戸時代からある相撲があります。相撲は四百年以上の長い歴史があり、日本では数少ない人々が楽しむスポーツですが、実はルールの変更をあまり行っていないスポーツです。

ルールの変更がないスポーツとは、現代のスポーツ感から見ると奇妙な感じになりますが、その分、相撲は文化の側面が強くなります。それ故か、相撲を日本の国技、さらには神事だと主張する人さえいます。

その相撲界で、暴行事件を始めとするトラブルの頻発が多くありました。また土俵上で挨拶していた人が途中で倒れて応急処置が必要なケースが生じ、これを見た観客の女性が善意の看護で土俵に上がると、女性看護を禁止する場内アナウンスがあり、物議を醸した例がありました。いろいろなトラブルの多発、これに対する協会の対応の鈍さ、古さ。

残念ですが一連の不祥事は相撲界だけでなく、日本のアマチュア、学生スポーツにも広く及んでいます。スポーツのルールは仮説を基にしています。ルールは、観客が参加しスポーツを祭典とするために必要なものですが、ルールの変更が必要となれば容易にルールの変更を行います。

ところが、ルールの変更を快しとしない日本。スポーツである相撲に文化や神事の側面が強くなる日本。欧米人の本質に基づく仮説、日本人の一時凌ぎの仮設。一見すると二つは余り違いがない関係に見えますが、深く考えると私の心を憂うつにさせます。

※本記事は、2020年5月刊行の書籍『特性を活かして生きる』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。