当時を振り返ってみると、60年代は2つの大きな社会的事件の間にあったといえる。

1つは60年の日米安保改正をめぐる、いわゆる安保闘争である。

これは当時の岸内閣が結んだ日米改正安保条約に対し、国会の承認を阻止すべく行われたもので、これはまさに若者のみならず、国民全体を巻き込んだ政治闘争であった。デモ隊と機動隊の衝突において多くの流血と1人の女子学生の死をみた激しいものだった。私が仲間とデモに参加したのは、浪人で予備校に通っていた時だ。

事態は結局、条約は自然成立し、直後に岸内閣は総辞職し、60年7月には池田内閣が成立した。

もう1つは60年代終わりの、日大、東大をはじめ全国規模で勃発をみた、いわゆる全共闘運動である。

これは66年に始まった中国の文化大革命の思想と一脈通じるようにして起こった、フランスの学生によるいわゆる5月革命が、野火ごとくいくつかの国に燃え広がった飛び火のようなものだった。

これは政治闘争というより既存の権力、体制を支えるすべての考え方に「ノン=異議申し立て」を突き付けるものであった。」紛争は1969年の東大安田講堂の占拠と機動隊による鎮圧で一区切りをみたが、学校内外においてその影響は長く尾を引くこととなった。

私が建築学科にいた期間は、正にその狭間に位置していた。安保闘争を担った全学連は安保改正後、明確な統一的目標を見いだせないまま、種々のセクト間で対立抗争を繰り返していた。

ベトナム戦争は始まっていたが、日本で反戦運動が広まりを見せるにはまだ間があった(べ平連の成立は1965年だ)。私の周りで学生運動に関わり続ける者もいたが、私はその道に深入りするつもりはなく、ノンポリを自認していた。多くの学生は政治的関心の下火の中で、新たな展望も描けずに、自分の立ち位置に自信が持てないままでいたはずだ。

一方岸内閣に代わって登場した池田内閣は、経済優先の施策を次々と打ち出して、社会は復興景気の流れが起り、社会の目が政治より経済に多く向けられるようになった。

その事態に多くの若者は、社会の秩序の中にそのまま飲み込まれることに抵抗を感じつつも、社会に対する抵抗行動までには至らずにいた。それは逃避とまではいわぬものの、しばらくは立ち位置がはっきりするまでは時間が欲しい、という気持ちだったと思う。

そういう状況は、大きな政治的祭りの後の虚脱感と、今だ新しい展望の萌芽も見えない中では当然の事態とも考えられるのだった。しかしまた一方、時代の置かれた状況は変わるものの、古今若者の社会に対する心情はそう変わるものではないとも考えられる。

平たくいえば、青春の心情は「まだ大人になりたくない」のだ。時代を種々概観するに、平和な時代ほど「自分探しの旅」は長引くようである。

1970年代になってこの傾向が強まって社会現象化し、モラトリアムの語が流行ることになる。

※本記事は、2022年7月刊行の書籍『遠き時空に谺して』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。