【前回の記事を読む】【小説】車窓からの類希な美しい光景に「彼女は三十一字を閃いた」

海の絵

美子は二十三歳の誕生日に結婚した。夫となった人は、織物の絵柄の下描きをする図案工場に勤める職人気質(かたぎ)の会社員であった。

美子がその彼と巡り会ったのは二十二歳になったばかりの晩夏、急に、ひとり旅を思い付き、由良の白崎海岸へ出かけた時のことであった。

美子の何時もの癖である、ただなんとなく、ぼんやりと三十一文字を考えながら海沿いの細い道を歩いていると、その少し先の方で海に向かって、三脚を立て大きなキャンバスに絵を描いている彼の姿を目に止めたのであった。

陽射しが眩しく、汗ばむくらいの昼過ぎに、麦藁帽子を被った彼が、ちらっと海を見ては絵筆を動かしている、その様子を目に止めた時、美子は何か見てはいけない物を見てしまったような、後悔にも似た思いと驚きを感じた。しかし、その直後、ある種の閃きのように、「あのキャンバスに描かれている物を見たい……」という衝動にかられた。

美子は、一瞬ためらったが、ふっと溜め息をついた後、意を決して、海に向かって大きく深呼吸をした。そして、足音を立てないように一歩、一歩とゆっくり歩き、彼の背後にそっと近づいて、そのキャンバスを見た瞬間、思わず「あっ」と小さく声を上げた。それは、キャンバスに描かれている海の色が、あまりにも美しく思えたからであった。

ブルーに、にび色をプラスしたように見えるのに、誰が見ても「あれは晩夏の海だ……」と、季節を感じさせるような、言葉では表現出来ない、美しい色に描かれていたからであった。それに、ずっと向こうに見えている水平線の、海と空の境界もくっきりと描かれ、そこには船が形よく描かれていた。

その船は此処からは、まるで停止しているかのようにしか見えないのに、キャンバスの中では、目的地の港に少しずつ進んでいるようにも見える、不思議な雰囲気を醸し出していた。

美子が暫く、言葉を失くして立ち尽くしている、その気配に気づいた彼は、「やあ……」と言って、一瞬振り向いたが、それは、ほんの束の間のことであった。すぐに、左手にしていたパレッ卜に絵筆を持ってゆき、次に使う色を選んだ様子で、その絵筆をキャンバスの上で動かし始めた。

美子は急に思い付いたように「こんにちは……」と、ひと言だけ言って、軽く会釈をしたが、その後に続ける言葉は見付からなかった。それは、ひと言も交わす余裕のないほど、彼は真剣に絵筆を動かしていると、美子には思えたからであった。その彼の邪魔をしてはいけないと判断した美子は、「では……」と短い言葉だけを残して、その場を離れた。

美子は陽射しを避けるため日傘を少し傾けて、もと来た道を歩きながら、その日傘の柄を支えている左手に触れる胸の奥深くの方で、波打っているような軽い動悸を感じていた。