【前回の記事を読む】広島へ転勤…で出会えた「居酒屋」「バー」「クラブ」の凄さ

第二章 西日本

三 大分

広島の居酒屋を書いたあと、福岡を飛んで居酒屋なら中洲や天神であると自負する博多っ子には申し訳ないが、人との深いお付き合いがあった大分を書くことをご容赦願いたい。

大分に対する私の知識は戦国時代、海外との貿易を画した大名大友宗麟が治めていた領地であったことや、近年は製鉄の街として発展したことを知る程度であって、北海道出身の私には縁のない街と思っていた。

しかし一九八九年、その大分に仕事で出張する機会ができた。大分の不動産建設会社から、自社で建設する集合住宅向けにイタリア製の当社の大量の洗濯機とビルトインキッチンの引き合いを貰ったからである。

見積書を出した後、会社を訪ねると代表者が私を待っていて、挨拶もそこそこにすぐに担当専務に対し書類を早く出せと催促している。専務が渋々私の前に広げた書類を見ると、何と金額が記入された注文請書であった。それもお付き合い程度の卸値引きこそしてあったが当方の見積書通りの金額となっている。

社長が言うには今日はサインだけでよい。会社に帰ったら社判を押して郵送してくれ、それよりも鞄をホテルに預けて六時に戻れるか、目出たいので酒飲みにいこうと言う。何と剛毅な社長であることか、引き合いを貰ってからすぐの大口契約であった。

急ぎ向かい側にあるアーケード街を通りホテルに向かって歩いて行くと反対側から五十年前に大阪の商社に入社した同期の岡本とよく似た男が歩いて来る。向こうも私に気がついて目を向けたが、まさに岡本であった。

広いアーケード通りの真ん中でお前はなぜ大分にいるのだ、お前こそと言い合いその奇遇に驚きあった。聞くと彼は大分出身者であって、同期の大河内も同郷ですぐ近くに住んでいる由、取り敢えず喫茶店で近況を語り合い次回は三人で飲もうと約束してその日は別れた。

そのような奇遇ともいえる出会いは半世紀前に遡る五十五年前に隣の呉の街でもあった。

私が大学三学年の企業実習で、戦艦大和を建造したドックに憧れて呉造船で実習していた時、隣の呉の大通りで高校時代の同期の村上とばったり出会ったのである。高校卒業後の同期の消息は知る由も無かったが彼はその後、室蘭工業大学の金属工学を専攻し一足早く日新製鋼に就職していたとのことであった。大和はその前身の工場が造る鋼板を使って建造されていたのである。永く生きていると人生不思議なことが起きるものだ。

大分は製鉄の街であると書いたが何故知っていたかというと、総合商社に就職した駆け出しの頃、私は高炉設備の商売に携わっていて、新日本製鐵が四千立方メートルの大型高炉を大分に建設し日本の大容量製鉄技術時代の先鞭をつけた話は鉄に携わる者にとって歴史的な出来事として余りにも有名であったからである。