第二章 仮説社会で生きる欧米人

欧米の政治形態は仮説で成立している!?

欧米人は「本質は見えない聞こえないが、存在する」とし、本質をアレコレと考え追い求める姿勢があります。欧米人の本質を追い求めるスタイルは日本人から見ると不思議な感じを覚えます。

その要因を考えてみると、この不思議な感覚は、彼等の考えの中に「哲学」と「神」の存在が大きく関係しているからだと、私は見ています。哲学は二千四百年前にギリシャで発祥したと言われていますが、哲学の定義は「人が生きる根本原理を究めようとする学問」とされています。

今から二千四百年前と言えば、日本では大陸から稲作が入ってきた弥生時代の始め頃で、当時の人々の生活は草や木の実を採集していた生活から大陸伝来の米作り生活へとスタートする時期です。このような時代に西欧で、ものの根本原理や本質を求める哲学が起こっていたと聞くと、「本当かな?」と驚くほかありません。

哲学と本質、本質と仮説、そして本質に近い仮説を基に思考する演繹法。この一連の流れは密接に繋がっており、欧米人の基本的思考の大きな柱となっています。五官で、特に視覚で物事の是非を判断する日本人にとって、哲学は厄介な学問に映りますが、「本質は見えないが、存在する」とする欧米人の考えは遠く哲学思考から由来し、これがキリスト教誕生ドラマにも繋がっています。

彼等が仮説を入れ込んで話す時や文章を作る時だけではありません。欧米社会は仮説の山盛り社会だとも言える仕組みになっています。日本人にとって、欧米が仮説が盛りだくさんの社会だと聞かされると、奇妙な感じ、あるいは違和感を持つものです。

欧米は仮説社会であり、人々は仮説社会を当然のように受け入れて生きていると言っても過言ではありません。仮説で成り立っている欧米社会、その例をいくらでも挙げることが可能です。

その代表格にあたるものが、創造主とイエス・キリスト、そして人々の関係をすり合わせた「三位一体」説です。三位一体説は創造主の発する霊で三者が一体となっているとする考えですが、三位一体説は見えない霊を中心概念に置き創造主とイエス・キリストその人を結びつけた仮説の集合した構図、体系図だと言えます。

権力の仮説では国家権力を三種別に分けた「三権分立」制度があります。三権分立とは十八世紀にロックやモンテスキューが主張していたとされていますが、三権分立は日本にも存在しているので、私たちは当たり前の制度と受け継いでいます。

しかし、現実の権力を持つ者同士は互いに軋轢を抱くようになるもので、その結果、自分達だけの都合のいい専権を目指すものです。三権分立の狙いは権力の濫用を防ぐため、権力を司法、立法、行政の三機関に分け、それぞれの権力は独立し、互いを監視する仮説システムです。

一方、世界に目を向けると、いまの世界の大半の国は民主主義政治を採用しています。民主主義国家における権力の位置付けは、権力は統治する国家にあるのでなく、民衆が権力を保有し自主的に行使する制度とされています。

この国民主権概念も、権力者側が国民の選択(選挙)に従うという、目的を持った仮説社会です。欧米社会が仮説社会で成り立っていると聞くと私たち日本人は欧米社会に危うさを感じますが、彼等の仮説は一時凌ぎの仮設でなく、確たる目的、理念に基づいている仮説となります。

日本は民主主義国家となっています。ところが日本は国民の権利を守るための民主主義という概念説を履き違え、権力者は仮説を軽く考え、仮説をあらぬ方向に転用することが度々あります。

たとえば行政側の役人が森友学園や加計学園問題で他省庁へ干渉し、権力者へ忖度することがたびたびありました。不祥事は森友、加計だけではありません。不祥事の根は深く、役人だけに留まらず政治の中枢部にも及んでいます。これは権力側が厳格に守らなければいけない民主主義や三権分立の考えを、自分たちの都合の良い一時凌ぎの解釈で対処していることに原因があります。

※本記事は、2020年5月刊行の書籍『特性を活かして生きる』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。