六月二十八日(東京都杉並区)

ところで、自由というのは黙っていても空から降ってくるような授かりものではないし、社会的に善とされる素直さや従順さに属するものでもない。むしろ、そういった美徳は人を自由から遠ざける。ただ良い子でいるだけでは、人間は決して自由にはなれない。

自由の獲得と維持にはそれ相応の努力と懐疑、そして思慮深さが求められる。無数の思想家が万言を費やして論じてきたように、とかく自由には敵が多い。僕たちはまず、自由は勝ち取るものなのだということを認識しなくてはならない。それは、歴史の授業で習うような革命の時代限定のおとぎ話ではない。個人の権利が法で保障された現代であっても、自由の本質は何ら変わらないのだ。

自由の実現にとって最大の障害となるのは、他者という名の人間だ。自由は人間だけが認知しうる概念だけれども、だからこそ、それを阻むのもまた人間なのだ。気を許したら最後、人間は嵩になって僕から自由を取り上げようと飛び掛かってくる。

彼らの手法はとても巧妙で、暴漢や警察のように力に訴えて捻じ伏せるような浅はかな真似はしない。むしろ逆だ。彼らは手始めに信頼とか愛情とかいう耳あたりの良い言葉をささやく。そして、飽くまで決定するのは僕の自由意思であると強調するのだ。

しかし、そんな口車に乗せられてはいけない。

彼らはあらゆるヒューマニスティックな美名を駆使して僕を束縛し支配する機会を虎視眈々と狙っている詐欺師なのだから。彼らは言う、「お前を信じている」「私にはあなたしかいない」、と。こういった人間愛を装った言葉はすべからく暗黙の契約を要求するものであって、僕に自由の放棄を強制し、何らかの義務の履行を命令する。

さて、その他者であるが、この世界の誰か一人でも、他者が湛える微笑の奥を覗いたことがあるだろうか。目尻や口角を引きつらせた目の前の人間を覆う表情筋の薄皮一枚を引っ剥がしてみればいい。そこにはきっとブラックホールのような暗黒が広がっていると僕は思う。そうでなければ、澱んだ底なし沼がぽっかりと口を開けているのだろう。

人間は友好の笑みを浮かべながら舌打ちができる。救いの手を差し伸べながら、救うべき相手の破滅を願うことができる。そうしながら、自責の念に寸毫(すんごう)も駆られること無く自らを善良な市民であると心から信じて生きているのだから、人間の複雑怪奇さというものは極まっている。

僕にとっては、人間存在のあらゆる要素が脅威そのものだ。他者というものは常に、あたかもそれ自体が存在目的であるかのように、僕を惑わせ、混乱させる。そして、柱に群がるシロアリのように僕の自由を四方八方から蝕み、食い潰し、消化する。