【前回の記事を読む】晩年、自分の作品への批判を恐れ、宗教へ傾倒していったマリー・ローランサン


詩人・作家 Guillaume Apollinaire

ギョーム・アポリネール 1880.8.25 ローマ─ 1918.11.9

 

パリグリエルモ・アルベル・ウラディーロ・アレッサンドロ・アポリナーレ・デ・コストロヴィツキは、ポーランドの小貴族の娘であったアンジェリックの婚外子としてローマで生まれました。父親はイタリア軍将校、フランチェスコ・フルージ・ダスペルモンと言われています。

彼こそがマリーの人生の中で最も大切な恋人、そして20世紀で最も重要な詩人の一人ギョーム・アポリネールです。

幼少期をモナコで過ごしますが、家政婦などをしていた奔放な母親は、女詐欺師として逮捕されたり、弟アルベールとギョームを残して失踪したりします。ギョームは学校の成績は優秀でしたが、バカロレアの口頭試問に落ちてしまいます。

その後図書館で濫読三昧をして、母親の結婚によりフランスへ入り、パリに辿り着きます。おしゃべりで大食漢、大酒飲みで女好きだったギョームは、ピカソをはじめとした友人たちと新しい芸術を語り合い、20世紀の芸術革命のリーダーとなります。

マリーとの伝説的な恋愛、モナ・リザ盗難事件の被疑者、第一次世界大戦でのフランス軍への入隊と波瀾万丈な人生は、数多くの傑作となる詩、評論、小説を残し、20世紀の文学、芸術に多大な影響を与えながら、スペイン風邪によりあっけなく38年の生涯を閉じます。

マリーは遺言で、ギョームからもらった手紙の束と1本の薔薇と共にギョームと同じペール・ラシェーズ墓地に埋葬されています。

ギョーム・アポリネールの死 La mort de Guillaume Apollinaire

ギョーム・アポリネールは1914年7月28日の第一次世界大戦勃発によりフランス軍への入隊志願と共にフランスへの帰化申請をしますが、入隊は許可されませんでした。しかし12月に第38砲兵連隊への入隊を認められ、最前線であったシャンパーニュ地方へ出征します。

スペインでの亡命生活で苦渋を味わっていたマリーは友人で作家のルイーズ=フォール・ファヴィエの仲介でアポリネールと直接文通できるようになります。砲兵隊でフランスのために戦う嘗かつての恋人アポリネールのためにマリーは、「フランス万歳 砲兵で詩人のギョーム・アポリネール・ド・コストロヴィッキへ、その友人マリー・ローランサンより 1915年2月17日 マドリードから」と書き込んだ水彩画を送ります。

1915年11月昇進して中尉になることを望んだギョームは第96歩兵連隊に少尉候補生として入隊、1916年3月9日ついにフランスへの帰化を認められます。その喜びも束の間、わずか8日後の17日、塹壕(ざんごう)で『メルキュール・ド・フランス』を読んでいた彼の顳顬(こめかみ)に炸裂した砲弾の破片が食い込みます。

中尉となりパリに戻った彼は精力的に作家活動をし、ジャクリーヌ・コルビと結婚しますが、流行したスペイン風邪にかかり、看病もむなしくピカソや友人たちに看取られながらわずか38年の生涯を閉じます。

皮肉なことに、彼の自宅付近を練り歩く、第一次世界大戦の勝利を確実にしたパリ市民たちのドイツ皇帝ウイルヘルム2世に対する「ギョームを殺せ!!」の叫び声を聞きながら。