卵ねえ、と考えながらレストランにたどり着いたら4時を回っていた。皆すでに準備で忙しくしていた。遅番と早番があり、遅番は4時までに入る。急いで着替えて、厨房に入った。

鳩山さんが、何だったのと聞いてきたので一応説明しておいた。もちろん今日も卵の殻は割れないのだ。

今日のお勧めはポークカツレツ。卵液に浸したポークにパン粉を付けている洋子さんを横目で見ながらデミグラスソースを作る。トンカツソースに似ているが、薄め。このレストランではマッシュポテトが付き、生キャベツは付かないが、芽キャベツのローストが付く。雄二なら、きっと生キャベツなしでは無理だろう。

それにしても卵は何の象徴なんだろうか。卵が割れないというのは実に不便だ。卵好きの私は大変困っている。私のような高収入でない独身には卵は大変経済的な食材なのに、毎朝の生卵かけご飯も目玉焼きも食べられない。

気軽に卵の殻を割ってくれない? と、頼めるお友達はお隣さんには皆無だ。何とか試みようとしてみるが、あれからもう2週間経つが進展はない。考えるとイライラしてくるので、考えないことにしている。

クリニックにはたくさんの強迫症の人が通ってくる。家から出られないという病気の人はしっかりとお母さんの手を握って通ってくる。私の状態はそういう人に比べれば、軽度であるが、私には大変な障害だ。

ストレスなどが溜まっているのかと自問自答してみる。わからない。

アルコール依存症の人も通ってくる。一人私と同じくらいの年齢だと思うが、肝臓機能が衰えるくらいの酒を飲んで入院してから、こちらに通っている男性がいた。磯部幸太郎さんと言った。

仕事もしてない。コンビニに入るたびビールを買いたくなって困るそうだ。酒のない国に引っ越したいと言っている。職もなく、いつ酒への欲求が減るのかもわからない状態で、毎日不満だらけとのことだった。今度また酔っ払うようなことになると、施設に入れられるそうで、必死で欲求と戦っている様子だった。

それに比べれば卵の殻くらいでと思うが、私の職業を考えると、惨めだ。鳩山さんは理解があるが、一度「これは身体障害と言ってもいいね」と笑っていた。

そう。卵の時は独り立ちは無理だ。他の人の助けがいる。

目が見えない人の気持ち、耳が聞こえない人の気持ちも少しはわかるようになった。足のない人も手のない人もいる。そういう人が自立するのはいかに大変か、良くわかった。

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※本記事は、2022年5月刊行の書籍『卵の殻が割れなくて』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。