あの空の彼方に

玲子さんが下を向いたまま、私に、

「真弓さん、本当に有難う。本当に申し訳ありません。先程は言いすぎてしまって。このお礼はきっとさせて頂きます。あとのことは何も心配しないで。出来るだけのことはさせて頂きますから。どんなに感謝しているか。どうぞ宜しくお願いします。」

救急車で運ばれた男性は、七十五歳の年金生活の方で、奥さんと娘さんが一人いる人でした。

病院で手当を受けましたが、その日のうちに亡くなりました。死亡病名は急性硬模血腫によるショック死でした。

私の罪名は過失運転致死罪です。

被害者の遺族の方との示談は、損害賠償、慰謝料などなど、全て含めて三千万円で、私の加入していた自賠責保険と任意保険で支払われ、成立しました。

簡易裁判所の略式命令で罰金刑の有罪判決となり、三十万円の即日支払いを執行しました。

行政処分は運転免許取消となりました。私の仕事はその足がなくなり、知人に代ってもらうことになりました。

「何時までも、貴女のところにお世話になっている積りはないのよ。クリニックでは元々、足りていた人員ですもの、私のいる理由はないわ。

運転免許もやがて再取得出来るようですし、復職は無理でしょうけど、探したら何か見つかると思うの。私、欲はないの。親のお蔭で住むところはあるし、食べてゆければそれでいいと思っているの。

玲子さん、縁談などはもういいのよ。私にその気がないから。全てを諦めた訳ではないのよ。私が役に立てたなら、それで良いの。あまり気を使わないで頂だい、却って心苦しいから。私に何かをしなくてはならないなどとは思わないで。

私は唯、今までのように家族ぐるみのお付き合いをして頂くのが望みなの。貴女と御家族が、以前のように明るく暮らしていらして、私も時々、その中に入れて頂けたら、それが私にとって一番嬉しいことなの、私の望みはそれ以上でも、それ以下でもないのよ」

透さんとはあの事故の日以来、親しく話すこともなく、会ってもいない。連絡もなく、学業が忙しいだけならいいのだけれど。

そうしたある夜、私の自宅に透さんから電話があり、

「貴女が身代りになって下さった気持が解るから、僕も今まで、その気持に応えようと頑張ってきたけれど、今、冷静になってみて、僕は何故、あの時、両親の言うままになってしまったんだろう。

僕は僕の罰を償って、それからでも道はあったのではないか、と思う。もし、それで医者への道が閉ざされたとしても、それが全てではない、と思うことがどうして出来なかったのだろう。僕は自分の罪を隠していることが辛いし、何よりも貴女に、取り返しのつかない不幸を背負わせてしまった。

自分のような者は、医者にはおろか、生きている資格もない。他ひ人とは知らなくても、自分は知っている。あの時、心の弱さから名乗り出ることが、出来なかった。僕は今、自分が何をやっているのか、解らなくなってしまった」