プロローグ

Ars lunga et vita brevis――Hippocrates

(技術は長く人生は短し――ヒポクラテス)

ある母の痛恨

その女性を仮にM夫人と言っておこう。

夫人には二人の娘がいて、長女は東京近郊の実家で母親と一緒に暮らし、次女は結婚して東京で家庭を持っていた。

M夫人の長女は長身のきれいな女性で、英語が得意で国際線旅客機のスチュワーデスを経て、英語学校の講師をしていた。一度アメリカ人と結婚したが数年後に離婚している。

長女が体に異変を覚えたのは、腹部に触診で分かるしこりが出来たのがきっかけだった。胃の辺りが膨らんできて体の外から触ってもそれと分かる。食欲も落ち、胃の調子も何だか変である。彼女は母の勧めで亡くなった父の母校が運営している大学病院の胃腸外科で検査を受けた。診断したのは大学医学部の教授だった。

検査の結果を聞いた日、帰宅した長女は母親に明るい表情で言った。

「先生はこれは悪性のものではないから心配はいらないって。胃に出来たただのポリープだから、手術の必要はなく薬で治るそうよ」

母娘は安心し喜び合った。暫くは気にせずに普通の生活を続けた。

しかし薬を飲んでも腹部の膨らみは一向に良くならないし、胃の違和感も変わらない。それどころか体調は益々悪くなる一方だ。

それを聞いた妹が、何だか心配だから東京の専門医に診てもらったらどうかと言い出した。妹に勧められるままに東京の癌研究で有名な専門病院で検査を受けた。

検査の結果は衝撃的だった。医師は“これは胃癌の末期である。直ちに入院しなくてはならない”と言った。長女はその癌専門病院に入院したがすでに病巣は進行しており、ほとんど手を施すことが出来なかった。

彼女が息を引き取る前に主治医が“誰か他に呼びたい人があったら連絡して下さい”と母親と妹に告げた時、彼女たちは辺り構わず号泣したそうである。享年四十四歳だった。

主治医は母親に“これは誤診だから彼女を診たという医師を訴えなさい”と言った。

だがM夫人は言った。

「訴えなさいと言っても、訴えてあの子が帰ってくるわけでもありません。こんな婆が偉い大学病院の先生を訴えて勝ち目があるでしょうか? そう思って諦めました」