このような状況の中、名将「斎藤一之」の名前は、次第に時代とともに、薄れるという事も感じている。斎藤監督の存在を知っているのは、現在の50歳以上の高校野球ファンに多いとも感じる。

また、そのせいか、必ず夏の甲子園近くになると、ネットニュース等で、昭和49年の優勝投手である土屋正勝氏(銚子商-中日)や、その後読売ジャイアンツで大活躍する篠塚和典氏(銚子商-巨人)を基にした記事は見かけるが、「斎藤一之監督」の記事について、あまり見かけないという事に気付いた。

結局のところ、確かに過疎化による若年層の減少が、銚子市の野球文化の衰退の最たる原因であることは確かであるが、「野球文化の継承」についても、なされなかった結果、かつての名将の名前が薄れる原因となったと感じている。

ただそれも、すでに斎藤監督と、その当時の銚子商を知り、語れる人たちが確実に減少しているというのも事実である。斎藤監督の没後30年以上経ち、それを書籍として出す機会もあまりなかったように思える。取材の中で以前『銚子商野球部ノート』なる書籍が出版されたことがあると聞いたが、既に絶版しているという。

私も、銚子リトルリーグから大学3年生までの学生野球を15年、また現在も草野球チームの選手兼任監督をさせてもらい、38歳を数えた。良いことも悪いことも(悪いことが多かったかもしれないが…)人生の一部として教えてもらった野球に、そしてその野球人生のスタートだった銚子市と、野球を教えてくれた関係者の皆様に対して、感謝とお礼のつもりでこの作品を手がけた。

取材の中で、幾人かに、「斎藤監督の書籍ならば死ぬまでに読ませてほしい」というご意見を頂いた。すでに約50年前の出来事を描いているため、当時を知る人も、それなりの年齢である。取材、執筆から2年を要したが、ようやく私の人生の中で故郷やお世話になった人たちに「恩返し」ができた風に思える。

この書籍を執筆するにあたり、取材を受けて下さった、関係者の皆様に、心からの御礼を申し上げたい。

※本記事は、2022年7月刊行の書籍『怪物退治の夏』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。