人は何故「求道」を求めるのか?

では、我々は何故「求道」に駆り立てられるのかを考えてみましょう。人によっては「俺は、求道なんて関心ない」と言う方も確かにおられます。しかしそんな方も「俺は何のために生きているのだ」とか「そもそも人間とは何なのだ?」とか「私はどう生きたら一番いいのだろうか?」といった本質的な問題意識すなわち疑問を一度は持たれたと思うのです。

しかし他の命ある存在、カラス・スズメ・犬・猫・ゴキブリはおそらく「私は何ものなのだ」「生きるとは何なのだ?」「どう生きるべきか?」とかは悩まないのだと思うのです。つまり人間だけが自分に対しての本質的な疑問を持つ存在なのだと思います。

これはおそらく好奇心とか探究心とか知識欲と同じでしょう。ギリシャ哲学の「フィロソフィア=知を愛する心」、哲学する心とも重なります。あるいはお釈迦様が説かれた仏性の働きと同じでしょう。内なる声とも言えるでしょう。

ともかく、それは無意識のレベルから密かに囁くように聞こえてくるものだと思うのです。そして、その「求道」の心、これを「求道心」と呼ぶことにしますが、これはもう人間しか持たないものであることを強調したいと思います。

「求道」の発見

これから私の求道の過程をお話ししたいと思います、お付き合い下さい。1970年の反戦・反安保の学生運動が荒れ狂った時代を背景に、何が正しいのか何が間違っているのか判断が出来ない状況の中で、私は「人間はどこから来てどこに行くのか?」と言うまさに画家ゴーギャンの絵にあるテーマを掲げて、大学内に「人間問題研究会」を作りました。

当時流行りだった初期マルクスの「経済学哲学草稿」や「ドイツ・イデオロギー」の文献などの勉強会を開き、「求道」の解答をマルクス主義に求めたものでした。もちろん当時は「求道」などの概念はまったく持っていなかったのです。しかしマルクス・エンゲルスの考え方は人間存在の意味を私に教えてくれるように思われたのです。ここに解答があるように思えました。

※本記事は、2022年7月刊行の書籍『求道』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。