「古人大兄さまは本当に韓人と言うたのであろうか」

と、母が青ざめた顔で言った。

「蘇我の分家であるわが倉山田家は代々朝廷の倉を管理してきた家です。もしや倉人(くらひと)と言うたのではあるまいか」

「母上……」

遠智の表情がたちまち曇った。父の石川麻呂は確かに「倉人」とも呼ばれている。同じ蘇我一門ではあるが、石川麻呂と蝦夷・入鹿の親子は犬猿の中であり、まして石川麻呂が今日の儀式を取り仕切る立場であれば、ありえぬことではないと思った。

しばらくすると屋敷の外が一層騒がしくなった。河内国からも兵が招集され始めたのだ。母の鼓動が伝わったのか、幼い大田王女が泣き出した。その日はついに石川麻呂からも、中大兄からも連絡はなかった。

次の報が入ったのは翌日の夕刻だった。中大兄の使者として遣わされたのは大海人王子だった。遠智娘は、大海人の語るこの恐ろしい出来事に体を震わせていた。今朝から時折臨月の腹が痛み始めたが、話を聞いているうち、等間隔にその痛みが襲ってきた。汗が吹き出した。しかし大海人の言葉を聞き逃すまいと必死でそれを我慢していた。大海人はひと通り話を終えると、

「大兄から、これを当家でお預かりいただくようにと承りました」

と言って、自慢気に一振りの剣を差し出した。

「入鹿の剣です。我が入鹿から奪い、大兄がこれで見事に入鹿を討ち取ったのです」

流石にあの大臣の剣だけあって、柄頭(つかがしら)に大きな紅玉(こうぎょく)(ルビー)を施した立派な造りになっている。鹿の角で飾られた柄にこびりついた生乾きの血の痕を見た時、遠智は急に息苦しくなって身を横たえた。母があわてて遠智を支えながら、

「王子、お仕舞いなされませ。今そのような不浄な物を遠智に見せてはならぬとわかりませぬか」

とたしなめた。大海人が不注意に気付いて、剣を背中に隠した。中大兄の二人目の子が生まれたのはその日の午後であった。王子ではなかった。生まれた河内国の更荒郡鵜野邑の地名から鵜野讚良(うののさらら)王女と名付けられた。後の皇統に大きな影響を及ぼすことになる女帝、持統天皇の誕生である。

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