北津軽郡の調査十三湖北岸

この後七月三一日・八月一日に、北津軽郡内潟村(現中泊町)村長の奥田順蔵(?~一九五三。県史蹟調査委員で十三史談会長。ご子息と今井は中学校の同級生)と同郡相内村(現五所川原市)村長の三和五郎兵衛の案内で、相内村のオセドウ遺跡を人夫三人とともに発掘した。

調査区は、大正一四年五月に東北帝国大学解剖学教室副手の山内清男(一九〇二~一九七〇)が二週間調査した際の調査区の間で、面積は約一一平方メートル。ここでは、同教室主任教授の長谷部言人(ことんど)博士提唱の円筒土器のほかに石器や小型で彫刻のある骨器等が出土した(清野一九六九)。

翌二日午前中には同村笹館貝塚(現笹畑遺跡)で、山内調査区の隣の断崖中腹を半日調査した。ここは貝塚としては非常に貧弱であったが、円筒土器等が出土した(清野一九六九)。

また、笹館の調査時に、地元では円筒土器片を「ヨロヒカケ」(鎧片か)と呼んでいることを記している。これは、寛政年間に、三内村で地元民が円筒土器破片を「みかへのよろひ」と言ったのを真澄が「栖家能山(すみかのやま)」に付した絵のなかで、「甕甲(ミカヘノヨロイ)」、すなわち土製の鎧であろうと解したこと(内田・宮本編一九七二)を想起させるもので、興味深い。

なお、今井によれば、オセドウ遺跡の調査前(七月三一日か)には、北津軽郡金木町(現五所川原市)の藤枝溜池付近の遺跡や市浦村(現五所川原市)の福島城跡を調査しており、福島城跡では竪穴から台型埴部土器(台付土師器)が出土した。よく研磨された薄紅色の上等の高杯であったという(今井一九五七)。

北津軽郡~西津軽郡の調査―十三湖南岸と岩木川流域

八月五日(三日か四日の可能性もある)に十三潟(現十三湖)を渡った。数日来の東風(やませ)のため波が高く、河口の渡船場は閉まっていたが、対岸の北津軽郡十三村(現五所川原市)役場の好意で出してくれた迎えの舟で、屈強の船頭五人とともに激浪のなか、しぶきを浴びて渡った。

ちなみに、ここには、昭和三四年には木造の十三湖橋が架けられ、五四年には現在の十三湖大橋となった。十三村に上陸後、村に一台の自動車で、明神沼の南はずれにある浜の明神の寺院址(現つがる市車力)を見学した(中谷一九二九)。文久年間に多数の懸仏(かけぼとけ)が発見された場所である。

今井によればこの十三村の旅館では、奥田も一緒で、中谷が珍しく酔って民謡を歌ったという(今井一九五七)。この後、亀ヶ岡遺跡(現つがる市館岡)までの道すがら、一帯の地形を見ながら石器時代遺跡の分布を踏まえ、十三湖の変遷やその水戸口すなわち岩木川河口の成立などについて思いをめぐらしていたようであり、これに関する考察も報文中(中谷一九二九)に載せている。