二〇〇三年私たちが文通を始めて間もなく、アメリカをはじめとする多国籍軍によるイラク戦争が始まった。そのことに彼は(ひど)く心を痛めていると、ニュースを見ながら私に手紙を書いてくれた。

「健、どのメディアもアメリカをはじめとする多国籍軍に偏った見方を示している。戦争に勝者も敗者もない。いやむしろ皆敗者だ」

ロバートは(いきどお)っていた。それは自分の愛すべき家族を紛争で殺された、当事者の(なげ)きであった。強い憤りであった。

その手紙を読んだ私は、心に深く突き刺さっている、目に見えない矢があることを自覚できた。人間という生き物は、どこかに偏見(へんけん)という矢が突き刺さっていて、自分の都合の良いように、その矢を放った人間を蔑視(べっし)して差別化を図ろうとする。これが商品なら良い。差別化することによって、より良い商品が生産されるからである。

しかし、これが人間に対して差別化するということは、自分と自分の属するコミュニティ以外は悪であると決めつけて、激しい暴力が生まれ、戦争になることさえあるのである。

その最たる例が、ナチスドイツによる、ユダヤ人の迫害であろう。そもそもこの突き刺さった矢という物は、誰にも存在する物である。自分の知らない人たちの存在、すなわち未知の人たちへの恐怖が、ヒトラーのような、扇動政治家に助長され、悪い方向へ悪い方向へと、差別の心を助長させられ、ホロコーストのような、恐るべき大量虐殺が現実に起きてしまった。

知らないことが恐怖。そして知っていて、その人たちを悪く言う人間は、さらに悪い。しかしその扇動家という人間にたぶらかされてしまった人間も、結局加担して、あのような歴史上悲惨な出来事を起こしてしまったのである。結果だけ見れば、同罪なのである。だからこそ、正しい哲学を持たねばならないと、私は強く信じる。

私は、神様を自分の外に作ることが差別を助長すると考える。これが私の哲学だ。自分の信じている神様が一番だから、他の神様を信じている人、もしくは神様を信じていない人は野蛮(やばん)である、排除(はいじょ)せねばならない、これが宗教戦争、宗教紛争の根本原因のように、私には思える。

人種、性別、信仰している宗教が違っても、本来同じ人間なのではなかろうか⁉ 人権は平等に誰にでもある。すなわち、何人(なにびと)も尊い生命を、自身の生命の中に持っているのである。もし神と呼ぶ者がこの世に存在するとするならば、何人も万人が生命の内奥(ないおう)にもっている尊い生命、これを指して神というのではなかろうか。だから、人種、性別、宗教などによって、人を決して差別してはならない。

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※本記事は、2022年5月刊行の書籍『未来旅行記 この手紙を君へ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。