《三》世界最初の産業国家オランダ

ネーデルラントでの新教徒弾圧

ネーデルラントは一五世紀末までにハプスブルク家領(ドイツ、オーストリア)となり、スペインの支配下に入りました。早くから毛織物工業と中継貿易で栄え、アントウェルペン(アントワープ)は当時のヨーロッパ国際商業の中心地の一つとして栄えていました。

もともとネーデルラントは、宗教改革の気運も高く、ルター派がいましたし、急進的な再洗礼派の運動、カルヴァン派の新教徒(ゴイセンといわれました)などが次々と登場しました。カルヴァン主義はここではとくに、神中心主義と予定説の宗教として人心をとらえ、都市部の商人や手工業者を中心に勢力を広げていきました。

一五五六年、カール五世(カルロス一世)からフェリペ二世がスペイン王位を継承すると、ネーデルラントの自治権を奪い、きびしいカトリック政策のもとで、カルヴァン派を弾圧するとともに、重税を課してネーデルラントの商工業を圧迫しました。

一五六六年、ネーデルラントのフランドル州で、カトリックの教会や修道院を標的にした「聖像破壊」や打ち壊しが発生すると、フェリペ二世はアルバ公を総督とする一万人の部隊をスペインからネーデルラントに派遣しました。総督アルバ公の弾圧は残虐を極め、カルヴァン派に一万人の犠牲者と亡命者が出ました。また、アルバ公は悪名高い一〇分の一税を導入し、経済的にもネーデルラントを締め付けました。

ネーデルラント独立戦争

一方、ネーデルラント諸州の貴族の中でも最有力者であったオラニエ公ウィレム一世(一五三三~一五八四年)は、アルバ公が来る前にドイツに逃亡していましたが、一五六八年、ネーデルラントに侵攻し、マース川の河口にあるブリーレを根拠地に周辺の港町を幾つか攻略し、ホラント州およびゼーラント州内の水上交通網を押さえました。

この結果、二六の都市がオラニエ公側につくこととなりました。ホラント州議会はオラニエ公ウィレムを州総督に任命しました。アルバ公側も反撃に出ましたが、オラニエ公側の守りを崩すことはできませんでした。

一五七四年一〇月のライデン(レイデン)の攻防戦に勝利を収めたオラニエ公は、ホラント州およびゼーラント州を実効支配するに至りました。その後、各地からプロテスタントがホラント州およびゼーラント州に逃げ込み、この二州の政治の実権はプロテスタントが握るようになりました。

南部一〇州(現在のベルギー)はやがてスペインに服従しましたが、北部七州は、一五七九年ユトレヒト同盟を結んで結束を固めました。

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※本記事は、2022年3月刊行の書籍『劇症型地球温暖化の危機を資本主義改革で乗り越える』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。