ビルマから届いた手紙

この疎開先へ、出征していた母方の叔父のビルマ(現在のミャンマー)からの手紙が届き、大人たちが大声で騒いでいたこと、その中に兄と私宛の郵便為替が入っていると聞かされた記憶があります。後に知ったところではこの手紙のビルマ発信の日付けは分かりませんが、疎開先へ届いたのは八月十日のことだと言います。

焼け跡には、おそらく二、三日中には避難先を知らせる標識などを立て、あるいは代行の郵便局への届も出していたかもしれません。しかし、今治が壊滅的な被害を受けた中で、五日後に徒歩で一時間はかかる避難先へ手紙が回送されたことは驚きです。

さらに付け加えるなら、この手紙が日本へ運ばれたであろう時期とその頃の東シナ海域の戦況や国内の輸送機関の状況などをあれこれ想定してみると、これは奇跡の手紙ではないかという気がしてなりません。どういう仕組みがあったのか、日本の郵便事業への信頼とともに郵便局員の使命感には頭が下がる思いです。

この叔父は遂に帰ってきませんでした。五十数年を経て、私は仕事上アジア諸国に出かける機会の多い時期がありました。クアラルンプール(マレーシヤ)とニューデリー(インド)間の航路からは鬱蒼たるミャンマーの山々がよく見えます。好天のインド洋上空からその山々を見つめ、そのどこかに斃れている叔父を思い続けました。

八月十五日

終戦の日は大島の父方の伯父の家(吉海町名)にいました。ラジオを聞いた大人たちが興奮気味にあれこれ言い、戦が終わったとは聞いたように思いますが、私は終戦の意味が分かっていなかったと思います。その時教えられたのかどうか、とにかく空襲はなくなるのだと思った記憶はあります。

そのあと、田んぼの畦道にいたとき空高く飛ぶ飛行機の爆音を聞きました。グラマンであることは音で分かっていましたから、やられるのは爆弾ではなく機銃だと思いました。晴れ渡った夏空の高いところで小さな翼がきらりと光りました。

とっさに伯父の家に取って返そうとする気持ちを押し殺して、「ここに立っていよう」と自分に言い聞かせ、爆音が聞こえなくなるまでそちらに向かって胸を張り畦道に立っていました。その時、照りつける太陽の下、一人だけの世界で感じた奇妙な感覚―恐怖と強がりと優越感のようなものさえ入り交った不思議な感覚―が何故か今でも鮮明に蘇ります。

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