「弘さんゴメンナサイ。私はあなたの子、武を置いて家を出てしまいました。言い訳をするつもりはありません」

すずは何か諦めた様子で続けた。

「あなたがいなくなってすぐに私の兄が死んだの。弘さんも知っていたと思うわ。結核だった。長患いだったから両親も疲れていて家の商いも少しずつ傾いていたの。私なりに悩んだわ。実家に戻って商いを助けたけどそれも無駄に終わってしまった。安治おじさんの所の健ちゃんからは、何度か連絡をいただいた。今更と思っているうちに、お母様の訃報を耳にした。行かなきゃと思ったけど行けなかった。武は神戸に行ってしまった。そのとき私は四十前の出戻りでしかなく、両親も相次いで亡くなったわ。それからこの店にお世話になって五年になります。情けない一生で終わりです」

すずは一度もコーヒーを口にしていない。

窓際の桜は風も吹かないのに何枚かの花びらを落としていた。

「……すず……お前のせいじゃない。俺が謝らなければならない。おやじを連れて海へ出たのはこの俺だ。そのせいで皆を不幸にしてしまった。スマナイ」

「違うわ。たとえそうであっても武を守れなかったことは私に非があるの。ゴメンナサイ」

「高津に住んでいるのか」

「いいえ、あそこは借金の返済で売りました。今はこの店の長屋にいます」

「男はいるのか?」

「いません」

「今日は泊まる」

「……はい」

夕方までにはたっぷり時間がある。弘は益田市街を目に焼き付けるために、若い頃に行ったと思う、高津の柿本人麻呂神社、萬福寺、医光寺、持石海岸などゆっくりと巡った。

あの事がなければ家族皆でお参りする事が出来たはずだ。運命とはいかに厳しく奇なものなのか。つくづく彼は思うのだった。

それにしても武は子を成していたと聞いたが、堅固でいるのだろうか。ユジンさんという若い奥さんも気丈にしておられるか。父の事も気になるが孫に会ってみたいと強く思うようになっていた。さらに、すずの事も……。あれは私と暮らした方が良いと思う。どうしたら砕けた陶器を元に戻せるのか。強い絆しかないだろう。

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※本記事は、2022年3月刊行の書籍『二つの墓標 完結編』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。