第2章 麻布中、麻布高、東京大学の頃

8 東京都品川区小山台二丁目五十六番地

①父藤田経秋のこと

親父はクラシックの音楽をやっていた。地元の伝習館中学校を卒業した後、ある時期一橋大学の予科に籍を置いていた。故郷柳川の父の父滝次郎氏の死去により経済的理由で退学を余儀無くされ、柳川に戻り、村役場に勤めていた。明治の初期に上野の音楽学校を卒業した長姉ことの影響が大きかった。

音楽の才があり、上野の音楽学校(今の東京芸術大学音楽学部)に入りたく遅まきながら勉強を始めた。その頃あまりやる人が居なかったビオラを選考した。入学してからは、まあまあの成績をあげていたらしく、卒業後も教員として学校に残ることが出来た。

亡母(喜与子)との恋愛は学校の中でも有名だったらしく、男女の直接交際が禁止されていたからである。二人の間のラブレターを運んだことのある後輩を知っている。その人から色々なエピソードを聞いたことがある。上野谷中は昔の面影を色濃くのこしている。谷中近辺を歩きながら、その頃の二人を想像してみるのは楽しい。古き佳き、戦前の東京を偲びながら。

九州柳川藩の父経秋の古い武家出と、キリスト教牧師の家庭の喜与子母の家との縁ゆえ、色々な点で相違することが大きかったであろう。亡母の影響で若くしてキリスト教の洗礼を受け、上野の音楽学校の近くのキリスト教会の青年会に入り、活躍していた。

生母喜与子と小生の妻(恵津子)の母の家とは関係がある。生母喜与子の父(小生の祖父)の先妻の妹が、家内の祖母(母の母)である。小生の祖母(母の母)は後妻であるので、血縁関係には無い。しかし仲の良い従姉妹であったことから、若い頃父経秋の関西方面の演奏会などに家内の両親(医者)も聴きに行っている。その頃の写真のいくつかが残っている。

上野の音楽学校(現在の東京芸術大学)は上野にある。付近を散策すると、東京の下町風情が残っている。両親は若い頃、そこを歩いていたのであろうと、想像をする。生母喜与子の墓は上野の谷中墓地の薄暗い場所にあった。継母篤子は後刻。青山霊園の綺麗な場所へ移設した。篤子の暖かい気持ちの表れと思っている。現在は藤田経秋家の墓地として小生が管理している。