第一章

賢治の母は中岡小夜子という名前で、祖母が諏訪で芸者に出ていたときに、地元の製糸工場主との間に生まれた娘だったが、その父親である工場主の本妻に同じ年の一月違いで女の子が生まれ、その娘にも「小夜子」と名付けたことから祖母が愛想を尽かし、その男と諏訪を捨てて甲府に出てきたのである。

祖母が芸者をしながら育てた母は、六歳の六月六日から茶道、舞踊、三味線、長唄など、将来芸者になるために必要な芸事を尋常小学校入学と同時に習い始めた。

学校に上がってからも、芸事のために必要なときは先生に頼めば早引けもできたし欠席することにも罪悪感はなかったという。

八の字髭をいつもひねっている校長先生は、「俺は芸者学校の校長だ」と言っていたという。

それというのも、家の在る若松町というのは歴史のある花街で、町の北側を流れる、もとは甲府のお城の三の堀だった「濁川」の土手沿いの道には三間間隔で柳の樹が植えられ、夕暮れからは大人の背丈ほどの行燈が同じ間隔でそれを照らし、その火影が水面に揺れ、どこからか三味の音が聞こえるという風情の町である。

この川沿いには、当時三十軒以上の芸者置屋が軒を並べ、町内すべての置屋の数は六十軒以上あった。それぞれの置屋は玄関口に小さく洒落た行燈型の看板に、「富久若」「近中」「久松」などの屋号をつけているが、その佇まいは料亭のような粋な造りではなく、新しいうちはタールの匂いがするような縦板を互い違いに張った黒塀で囲われ、中の様子が外からは窺えないようになっている家が多かった。

それぞれの置屋には、一本の芸者が一人だけで看板を上げている家もあるが、三、四人の抱え芸者がいる家が多く、十人以上を抱えている置屋もあった。

町内には、置屋の他に鰻屋、饅頭屋の他、芸者相手の小間物屋、髪結い床、俥屋(人力車屋)があったが、四丁ほど離れた老舗の商店が軒を連ねる繁華街とは違い、落ち着いた界隈だった。

また、川沿いの道以外にも置屋が点在し、しもた屋の横の狭い路地に入ると義太夫、日舞、鳴り物、常磐津、清元、長唄などの師匠たちがそこここに居を構え、仕込みっ奴と呼ばれた年端のいかぬ少女から、桃割れ髪を結って芸者のお供をしてお座敷でお酌をする半玉(線香代と呼ばれた一座敷の花代が半分であることからこう呼ばれた)は勿論、本玉として一人前になっている芸奴も今日は昼までは踊り、午後からは謡の稽古というような毎日が日課であった。