ただこの状況を前に逃げたくなるのが、非本来的存在の人間の本来持っている性質です。しかしライフストーリーで自己を冷静に見つめ、信じあう仲間と根源的共同体(救いの共同体)を形成していれば、この人間の弱さを克服し、新たな実存へと変貌することができるのです。この新たな実存とはどんなものでしょうか。

美しい花を見たときに、非本来的人間は、この世の価値に引っ張られているから、いくらするのかな、恐らく高いだろうな、もし簡単につくれたら、自分もつくって売ればお金が儲かるだろうなという見方をしてしまいます。美しい所に行けば、こんな所にホテルを建てるといいだろう、などこの世の価値に引っ張られて、美しいものが本当にはわからないのです。

まして一人で死に面して何とかしたいともがいていては、この世の価値観も崩れ去り、今まで見えていた美しさなど見えなくなるばかりか、何の価値も見出すことができません。何しろ死んでいくのですから、すべてのことが無に帰してしまいどうでもよくなってしまいます。この状況でも物に執着し必死に守ろうとする人も出てきますが、最後のあがきですね…。

しかしもしこの時死を受け入れて覚悟することができると、本来的な存在に昇華することになり、今まで見ていた美しい花が、即物的な目を乗り越えて、花の美が何の障害もなく覚悟した実存に迫ってきます。その時初めて、美に出会うことができるのではないでしょうか。

死は誰にとっても恐ろしいものですが、永遠の命はありません。誰もが死んでいくのは避けられない厳粛な事実です。死に近くなってそれを受け入れる心境に到達する可能性があることを歴史の事実は語っています。このような心境になれば死は少しも怖くなくなってしまうのではないでしょうか。

本来的存在(死の不安に打ち勝って静かに運命を受け入れ覚悟している実存)になり、同じように覚悟している仲間と共に根源的共同体(救いの共同体)にやすらうことができるのです。私はこんなとてつもないことを考えています。