【前回の記事を読む】後醍醐天皇へのまさかの進言も…楠木一族の最期の時が近づく

第一章 袴田一族のルーツ研究

桜井駅の別れ

兵庫への道すがら正成は、自分が忠節を尽くした後醍醐天皇に裏切られた。見捨てられた、という悲壮感が漂っていた。死を覚悟した正成は、西国街道を兵庫へと下る途中、摂津国の桜井の駅(大阪府三島郡島本町)で、最後まで供を望む十一歳の嫡男・正行に諭した。

「今回の合戦で自分が討ち死にすれば、足利尊氏の天下となるだろう。しかし、決して降伏することなく徹底抗戦をして、命を賭けて忠義を貫け。それこそが父への孝行だ」

と遣言を残し、河内へと帰した(『太平記』)。

この正行だけでなく、正行の従兄弟である長兄・正遠を除く行遠、高貞兄弟も年少であるという計らいで、涙の別れとなったのである。このとき、行遠、高貞兄弟は、楠木一族の次期当主の正行を支える立場であることを自覚した。そして地元の千早赤阪に帰郷した。この桜井の駅から別れた後、行遠、高貞の兄弟は、再び叔父の正成、長兄の正遠と生きて対面することはなかった。

湊川の戦いと、その悲報

建武三年(一三三六年)五月二十五日、いよいよ楠木正成と足利尊氏、直義兄弟との決戦が始まった。だが奮闘虚しく楠木正成は、午後四時頃、弟の正季(正氏)以下の一族二十八名と、郎等とを合わせ五十余名と共に、近くの小屋に火をかけて自害した。もちろんその中に長兄・正遠もいた。

正成は湊川の戦いでの敗死後、首を六条河原にさらされた。後にその首は、桜井駅の別れから十日ほどで、敵ながら正成への同情を抱いた足利尊氏の気遣いにより、正行のもとに届けられた。

正行は、変わり果てた父の首級を見て、悲しみのあまり父の形見の菊水作りの刀で自害しようとする。しかし母(久子?)から

「父が正行を兵庫に連れて行かずに生かしたのは、正行が楠木一族、郎等を養い、自身も成長して挙兵し、朝敵を亡ぼすためである。それこそが父の遣恨を晴らすことではないか」

と諭され、自害をあきらめた。

一方、行遠、高貞兄弟も、母(正成の姉)と共に、長兄・正遠の死を悲しんだ。留守部隊の楠木一族は、次世代の若者たちが生きて戻ってきたことを、悲しみに堪えながらも喜んだことであろう。当主となった正行は十一歳の幼少だったので、実質上、和泉の守護代・大塚惟正が指揮した。他に和田正興、佐備正忠、橋本正茂ら「正」を通字とする楠木一族が連なっていた。