1 厩戸皇子(聖徳太子)の薨年(こうねん)

『日本書紀』は、厩戸皇子が推古天皇二十九年(六二一)二月五日に(こう)じたと伝えています。一方、聖徳太子の伝記である『上宮聖徳法王帝説』のほか、「法隆寺金堂釈迦像の銘」、「天寿国繍帳銘」、さらに『聖徳太子伝私記』に記録されていた「法起寺塔露盤銘」は、ともに厩戸皇子が薨じたのは推古天皇三十年(六二二)二月二十二日と伝えています。

つまり、厩戸皇子の死亡年月日について、正史の『日本書紀』と、比較的信頼できる他の複数の史料との間で一年余りのズレが生じているのです。これはどういう事情なのでしょうか。

あくまでも正史としての権威にもとづき、『日本書紀』が正しいと考えなければならないのでしょうか。

ちなみに、右の法隆寺金堂の釈迦像は、正確な年次こそ分かりませんが、七世紀中に造られたことは間違いないと見られています。また、法起寺塔露盤銘は「丙午年三月露盤営作」と記されていることによって、慶雲三年(七〇六)三月に作られたことが分かります。

つまり、釈迦像銘と露盤銘はともに『日本書紀』の完成より前の古い記録にもとづくものであり、『日本書紀』の影響を受けていないという意味で信頼性の高い史料といえるのです。

また、「天寿国繍帳銘」を載せる『上宮聖徳法王帝説』は『日本書紀』の完成後に編纂されたと見られていますが、『日本書紀』とは異なる説を載せるなど、『日本書紀』より古い資料に依拠して編纂されている可能性が高く、今日まで伝えられた聖徳太子の伝記の中では比較的信頼性の高い史料ということができます。そういう観点から、『上宮聖徳法王帝説』も、また、そこに載る「天寿国繍帳銘」も『日本書紀』の影響を受けていないと見ることができます。

上記の情報だけでも、厩戸皇子が推古天皇二十九年(六二一)二月五日に亡くなったとする『日本書紀』にとって不利ですが、もう一つ『日本書紀』にとって不利な情報を追加します。それは、聖徳太子が亡くなったとされる二月五日という日付です。

実は、『西遊記』で知られる中国の玄奘(げんじょう)三蔵が、唐の元号でいう麟徳元年(六六四)二月五日に亡くなっているのです。『日本書紀』は薨年を一年繰り上げただけでなく、何らかの理由で聖徳太子の命日を玄奘と同じ二月五日に一致させているのです。

つまり、『日本書紀』は意図的に聖徳太子の死亡を一年繰り上げ、さらにその日付を中国の高名な玄奘三蔵の命日と一致させるという操作を行っているのです。

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