二ノ四 母なりの終活

高齢者ならではの肺炎は、命取りになりかねないリスクの高い病気とのことで、それらのことが懸念される以上、母の場合はリウマチに対する生物学的製剤の使用はまだ見送られ、引き続きステロイドや他のリウマチ薬、そして肺の薬で様子を見ていました。ステロイド剤は増減をしながらも一日、三mgになり、ずいぶんと時間をかけて減ってきました。少々の痛みと咳は時々あるものの、よくここまで治療に向き合ってきたと思います。九十歳、百歳まで生きられるかもと思いました。様々な方から、「元気で長生きしてね」と、声をかけられていました。

しかし、寛解の状態? かと思われたこの頃から、「元気での長生きはいいけど、もうそんなに長生きしなくてもと思うわ」と返事していました。以前は家でじっとしていられないほど活発で好きなことをして楽しまなければと言っていた母がそのような弱気なことを言うようになりました。

「私が亡くなっても全然悲しまなくていいからね。よく生きたね。よく頑張ったね。そう思ってもらったらいいからね」と、私たち姉妹に何度か、そう言うようにもなりました。まだずっと先のことだと思っていてそう言われても全くピンときません。むしろ、「はいはい、わかった。まだもう少し頑張って生きてね」と軽く返答していました。

母との外出で、車に乗り降りしやすいようにと、知人から手作りの木のステップ台をいただいていました。「これがあってちょうどいい、乗り降りできて助かる」と言っていました。シートベルトを装着するときは引っぱる力が必要なので、私がしますが、降りるときは自分でボタンを押して外し、運転中は自分の座席の下に収納している木のステップ台を降りるときは杖で引っぱり寄せ、すぐに自分が降りることに使えるよう、準備してくれるのです。

私が言ったわけでもなく、車に乗せてもらっているという思いからのせめてもの、自分でできる行動だったのです。このような些細なことでも母が自分を律し、私を助けようとしている気持ちは、とても伝わってくるものでした。

包丁も握れなくなり、洗濯は、洗ったり干すことはできませんが、畳むことは率先して行っていました。自分でなんでもしていたことが少しずつしづらくなってくるのはやはり悔しいことでしょう。私ならその年齢その状況になれば、どう考え、どう行動できるか、わかりません。

これまであまり辛いことを言ってこなかった母の姿に教えられることが、いっぱいありました。過去にも私が二十歳になる前、親戚から私にお祝いなどいただいたことに対してのお礼は自分できちんと伝えなさい、手紙でお礼を伝えるのも良いことだと言っていました。

いつしかときを重ねた私は親戚など人との付き合いに、進んで手紙を書くようにもなりました。実は、この手記自体、私は書くことを躊躇していました。父や家族のことを、いつか書きたい。しかしそれは、独りよがりの思いなのかもしれない。周囲への配慮も慎重にすべきで表に出さずそっとしておくべき、など様々な懸念がありました。

私は、唐突にも母に、「本を書いてみようと思うのだけども」と言いました。

「あーいいやん、書き書き」「えーと、あれがあったはずなんだけど」と、母の返事は、ものすごくあっさりしたものでした。

どんなことをどんな形で書くのかなどは全くもって聞きませんでした。むしろ、あれはどこに、と、何か私が言ったために探してくれているようです。何を探しているか聞いてもものの名前が出てこないようで、すぐに探すことは終わりました。その探しものは、後になって少し黄ばんだ、未使用の原稿用紙が出てきたので、これかなと思いました。

他のものを探していたのかもしれませんでしたし、すでに処分していたもののことかもしれませんでした。でも私は、きっとこれのことだと解釈し、本を書くことに母が背中を押してくれたと思っています。

母は認知症ではなかったのですが、時々、年相応といわれるもの忘れは、ありました。

師走の頃、十万円を下ろしてほしい、と言いだしました。いつも世話になっているあなたたちと三人で分けようと言うのです。年末年始の自分のためや、孫へのお年玉を考えているのだなと思いました。現金を下ろしました。

私は先に三万円をもらったよ、と言って取ってから渡そうかと、一瞬考えてしまいました。ダメだダメだ。それは、よくない。横になっていた母に十万円をそのまま見せて、「ここに置くよー」と、仏壇に置き、声をかけました。家の用事を終え私が帰るときに、「はい、これ、いつもありがとう」と、三万円を渡してくれたのです。

あー、申し訳ない、先に取らないで良かった。母は、ちゃんとしっかりしている。私は、なんて愚かな考えをしてしまったのかと。私の一瞬の邪気を見透かされたかもしれません。母の優しい行動から、別の角度からしっかりした教えを受けたと思いました。

母の“スケジュール”は、今週も皆勤でした。ほぼ毎日デイサービスも通い、二つのかかりつけ医院も偶然その週の間にどちらも診察があり、特に変わりはありませんでした。何もない日は、近所の仲良しの友人が訪ねて来られ、おしゃべりに花が咲いていました。私はその楽しそうな様子を見て帰ったのです。

その翌日、夜外出していた私に夫から電話がありました。「お母さんが倒れた、すぐ帰って」と。

“は? 倒れた?”。

“倒れた”の意味はわかっていますが、何かにつまずき転んだ、の倒れたのではないのかとも思いました。当時、妹が母と一緒に住んでいたのですが、妹が帰宅すると、母は食卓の方の椅子に座ってぐったりしていたので救急搬送したとのことです。突然、旅立ってしまったのです。そしてすごく偶然というか不思議なことに、数十年前に父が見つかった日と同じ日です。一年、三百六十五日もあってです。

母の死因は、推定で虚血性心疾患、冠動脈硬化症らしいとのことです。リウマチ、肺炎に気を取られて、やや血圧が高めだったことと心臓のことは、さほど注視していませんでした。日光浴をして骨を強くしなければ、と言って自ら外に出る日もあるように前向きな面もあれば、もう長生きしなくてもいいわ、の締めくくり、生に対して意気半々というかいつでも覚悟はしていたのかもしれません。

長生きしなくてもなんて、最近よく言っていたのが言霊となり実行されたのでしょうか。あまり人に迷惑をかけたくはないとは、よく口にしていました。母の葬儀でも私は、「あまり周りに迷惑をかけすぎないようにとの思いも強くあったのかもしれません」と話していました。

後でよく考えてみると私はこれまでが自ら多少迷惑を被っていたのだということを人前でさらけ出して言ってしまったように思いました。葬儀を振り返ってみて、そう気づいたのです。笑った顔の母の遺影に、「ありがとう、お疲れ様。でも人生まだまだ勉強ね」と言われて、まだなお教えられている感じがしました。

母らしい最期だったとも思いますが、私には、まだまだ教えてもらわなければいけないこともいっぱいあったはずです。母だったらどうするだろうか、と考えることもあります。最期まで人々との出会いを持ち、徐々にすすめた母なりの終活を讃えてあげたいと思います。そして、よく生きたね、よく頑張ったねと、今度は、本心からそう思っているのです。

【前回の記事を読む】【小説】「お父ちゃんが遺体で見つかった」躁鬱病の父に抱いた娘の後悔