【前回の記事を読む】子が産まれてすぐに徴兵された男の悲愴…涙にくれる妻との別れ

義父の体験談

戦争の醜さを義父の体験談からも記しておきたい。九一歳で故人となった妻の父は、家族にも話さなかったという驚くべき事件を話してくれた。

義父は旧制中学校を卒業し満州鉄道に入社。現地で招集され殆ど戦うこと無くシベリアに抑留された。そのころには軍隊や官関係のほとんどは民間人を遺のこして早々に引き上げていた。

極寒のシベリアでは日々に出る死者は、まるで丸太ん棒のように野積みされ、収容所での食料不足は深刻で手術でふき取った脱脂綿の血を吸うものまでいたと云う。私はやせ衰え血を吸うその人の心境を思うとつい目頭が熱くなる。

そしてある日全員招集の通達があり何事かと集まったところ日本兵二名が立たされている。ロシアの将校が高台に立ち唇を震わせながら「日本人は人間を食べるのか」と言った。

話によれば極寒のシベリアを三名で脱走し捉えられ連れ戻されたのがその二名だった。二人は示し合わせて一人の男を物色し、言葉巧みに誘ったのであろう。彼等の飯盒の中に人肉があったと言う。戦争がなければこのようなことは起こりうるわけはないが。しかし……。

人肉食については大岡昇平の『野火』にニューギニアやガダルカナルの飢兵による人肉食が暗示されている。フィリピンに於いても主人公田村一等兵が芋六つだけ与えられ本隊を追放される。飢餓状態の中僚友に助けられ黒い煎餅のようなものを食べ命を繋ぐ。彼に問えば猿肉だと言う。

やがてそれは日本兵を撃って得た肉である事が判る。最後には仲間同士が殺し合い、食を得ようとする。戦争の狂気と言えばそれまでだが、私は先に述べた餓死者一二六万を超える戦争を遂行した軍上層部の稚拙さを思わずにはいられない。

義父は控えめで私には特に教訓めいたことは言わなかったが一言だけ「人間。生きとかないかん」と言ったことを思い出す。

当時私は三三歳それから四五年の人生経験を経て、子供や孫に伝えるとすればやはり義父の言う通り、「何があろうと生きろ。生きていれば道は開ける」と「ワルには近づくな」であろうか。

「ワル」はいつの世でもどこにでもいる。

「ワルってどのように見分けるの」と聞かれれば「そうだね。良心の呵責なしに平気でウソをつき人をだますやつだ」と答えるだろう。

義父にはちょっとした余話がある。義父が務めていた国鉄S総局でその当時大蔵大臣をしていた田中角栄の愛嬢真紀子さんと日銀山際総裁の娘さんの四国一周案内役選任の話があった。義父は万事控えめ、痩身、背が高く見目もよく適任とみなされたのであろう。

その経緯を想像すれば飛ぶ鳥を落とす勢いの角栄氏が国鉄総裁に電話し、「田中じゃ。うん田中。キミーひとつ力になってくれんかね。わしの娘の真紀子が山際さんの娘さんと四国一周したいと言っとるんじゃ。そう日銀総裁の山際さんじゃ。出来れば案内役を付けてくれんかね。

真紀子はじゃじゃ馬で元気がいいのが取り柄なんじゃが何分まだ娘じゃ。心配なんで、まあよろしく頼む」とこんなところで連絡があったのであろう。

義父によれば、「真紀子さんは早稲田の学生。真紀子さんがいるだけで周りがパァーと明るくなるような溌剌とした娘さんだった。それに綺麗だったね。本当に綺麗だった。自分の意見をはっきり言い押しが強かった。山際さんは大人しかったね」

「それに真紀子さんからは帰京してすぐに御礼の手紙と毎年年賀はがきが届いたね。若いのに感心な子だった」と懐かしんでいた。

其の時、私も若く真紀子さんの年賀はがきを見たいと思わなかったが、この稿を書きながら興味が湧いた。今はもうかなわぬ夢だ。