海老沢の口が歪む。まずい、僕は腹筋に力を入れた。もう一人の僕が興奮している。まるでこの状況を楽しんでいるような感覚だった。男子と本気でやり合ってみたい。恐怖よりも好奇心が勝っていた。村瀬が見守ってくれるのなら僕は闘える気がした。しかし海老沢は何もしなかった。僕たちはただ睨み合っていた。

「海老沢君、やめなさい」

遠くから男の先生が数人で来た。海老沢はあっさり取り押さえられて、どこかに連れていかれた。萩野は泣きそうな笑顔を作っていた。泣かないこと、それが男としての精一杯のプライドなのだろう。僕は村瀬を探した。村瀬は萩野のことを見ていた。今にも駆け寄りたそうな顔をしている。行き場を失った興奮が虚しさに変わった。

「横関さん大丈夫でした?」

女の先生が僕を心配そうに見る。それはまるでか弱い女子を見るような目だった。僕は聞こえないふりをして教室へ戻った。虚しさと悔しさだけが残った。

その数日後、僕は海老沢と一緒に帰る時に言われた。

「あの時、セキハンが男だったらマジで殴ってたよ」

「だから殴ってこなかったの?」

「当たり前だろ。俺でも女には手を出さないよ」

その言葉がとても悔しかった。あの時はめちゃくちゃ怖かったのに、殴られたかった。いっそボコボコに殴られてしまいたかった。これはあんまり理解されないかもしれない。それでも僕が男だったら殴り合いたい時だってあるはずだ。それが村瀬の前だったならなおさらやめたくはなかった。

学年が上がるにつれて僕の悩みは増える一方だった。今度は小学校最後のイベントである制服問題が起きた。僕の学校は卒業式に中学校で着る制服で出席するのだ。僕は家族にスカートを穿きたくないと言い続けた。

「中学校はどうするの?」

家族から何度もそう聞かれた。僕はズボンがいいと言い続けた。少なくとも僕を「かっこいい」と言ってくれる女子がいるのだから、僕はせめて見た目だけでも男として生きたいと思っていた。

しかし、姉は普通にしてほしいと言った。姉は僕と入れ替わりで中学を卒業する。姉が嫌だったのは自分の後輩に風変わりな妹がいると思われることだったのだ。散々もめたあげく卒業式には男性の制服を着ることができた。その制服を母は近所の知り合いから借りてきたと言っていた。

※本記事は、2021年10月刊行の書籍『レインボー』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。