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大学生活と合気道

大学の四年間は体育会合気道部に所属しました。大学に入り、始めて合気道という言葉に接し、道着(稽古着のこと)を身に着け、帯を締めるのも初めてでした。何で合気道部に入ったのか? 人生は出会い。そしてその出会いで人生も変わりますよね。

早く大都会東京へ行きたい。そして親から離れて生活したいとの思いで、高校を卒業した三月下旬、大学の寮に入るため父親のタクシーで函館空港へ送ってもらい、羽田空港へ。父親とはタクシーを降りたところで「じゃあ、行ってくる」「頑張って」とのやり取りだけ。子供の頃から父親との会話は何かお互いに恥ずかしいようで苦手でした。でもちょっとした会話で分かり合える。お互いに分かり合えているという自信はありました。

まだ函館は寒く厚手のセーターにダッフルコート(その当時流行ってたんです!)を着込んで羽田空港に降り立ちましたが、暑くて暑くてコートは直ぐに脱いだのを覚えています。東京は人が多いなぁ! 都会だなぁ!

モノレールで浜松町経由山手線で三十分余り、丁度山手線の反対側の目指す目白駅に着きました。そして歩いて五分のところに閑静な住宅街の一角に寮がありました。十八歳の田舎者が函館から東京都内の住宅街に位置する大学寮に到着しました。

東京での一人住まいの記念すべき日。それだけでも天晴れ! これからどんな試練がどんな楽しみが待ってるのか? それを考えるだけでドキドキしますねぇ。

入寮したのは三月二十八日で私が二人目でした。一番乗りが熊本出身の村田君。そして二番目が北海道函館出身の私でした。村田君は体格も良く、いかにも九州男児! という感じ(この感じとは敢えて申しません! そんな感じです)。私は小柄でいかにも純情そうな? 道産子。

寮は二人部屋で全二十五部屋の五十人が定員。一年生が一階、二年生が二階で三年時には退寮しなければなりませんでした。そして入寮の順番でどんどん部屋が埋まっていき同室パートナーも決まっていきました。村田君とお互いに熊本弁と函館弁でよそよそしくもそれなりに挨拶をした後は、あらかじめそれぞれの田舎から送られて来た段ボールを開梱しながら自分の身の回りを整理整頓しました。その日は引っ越しでバタバタするも、あっという間に東京での一日が終わりました。

寮は朝晩の食事がついており、翌日も朝からどんぶり飯でしたが、昼近くなると丁度お腹がすいてそろそろ食事をどうしようか? と身体が訴え始めた頃に二階住人である一年先輩の石田さんと高木さんがご挨拶に来られたんです(一年先輩が入寮した私達にご挨拶?)。